ロサンゼルス 

 リンカーン大学へ向けて出発する前にロスのグラブス家に一週間滞在した。見るもの全てが珍しくてワクワクを通り越して呆然とした。ラグビーボールの形をした巨大なスイカ、電気洗濯機、大きな冷蔵庫、7人はゆっくり乗れる乗用車、広い舗装道路、車の波。驚きの連続だった。戦時中から戦後にかけて食事らしい食事をしたことのない私は、テーブルに出される食べきれないほどの料理を見て、敗戦国と戦勝国の差を実感した。
 
 私が最も興味を持ったのはグラブス家のテレビだった。日本では、電気店の、人の形がどうにか判別できる程度のテレビの前に黒山を作って力道山のプロレスを見る時代だったので、チャンネルを変えて好きな番組を選んで見られる居間のテレビには驚いた。


 グラブス氏は郵便局に勤務していたが、私がロスに着いた時には既に定年退職していた。庭に大きなペカンの木がある質素な家だった。ある日、そのペカンの木を撫でながら「息子のトマスが小さい頃この木を植えて、あの一輪車で土や肥料を運んで世話をしたんだよ。実がなるようになったら、その実を町で売ってお小遣いにした」と話してくれた。その時、私はグラブス師の行動についての一つの謎が解けた。
 

 山口県で宣教活動をしていたグラブス師は田舎の貧しい教会を訪問してはペカンの種を配って「ペカンの木を植えて、その実がなったら売って教会の資金にすればいい」と奨めていた。その提案を非現実的だと感じたのは私だけではなかった。しかし、ロスの家のペカンの木を見て、お父さんの話を聞いてはじめてグラブス師がペカンの木に夢を託したのかが分かった。


  
後に、私がフィリピンにマンゴー園を作ってその収益で奨学金を捻出しようと試みた時、冷ややかな反応が多かったなか、グラブス師は喜んでくれたことを思い出す。私の計画も大した成果を挙げなかったが、私の計画に賛同して資金を出してくれた人たちは「いいじゃないですか、少々失敗しても。これは男のロマンですよ。夢ですよ」と言ってくれたものだった。その時、出資してくれた人は皆既に他界した。 

 グラブス夫妻の家に泊まっている間に、映画「十戒」に連れて行ってもらった。赤い絨毯の敷いてある階段を上がると広いロビーがあり飲食物のカウンターが並んでいた。長い映画だったが途中で2回休憩時間があり、その度に観客はロビーで飲み食いしたり談笑していたのが印象的だった。
 

 ハリウッド・ボールでのクラシックのコンサートにも行った。野外舞台だが、演奏者は球を4分の1に切った形のドームの前で演奏した。舞台の前の長方形の池に照明が反射して幻想的だった。指揮者はバーンシュタインだったように覚えているが間違っているかも知れない。
 

 ロスからペンシルバニア州のリンカーン大学まで行く最も安い方法はバスを利用することである。グレイハウンドよりトレイルウエイのほうが少し安いので後者を選んだが、それでも71ドルかかる。日本を出国する時に持ち出しを許可されたドルは30ドルだったが、グラブス師やスマイス教授の友人から小切手がロスの家に送られて来ていたので旅費は工面できた。出発の前夜、グラブス夫人がダイニングテーブルに小銭を並べて「これがダイムでこれがニクル」と硬貨の呼び名を教えてくれた。買い物の練習ではアメリカ流のつり銭の数え方を何度も繰り返してくれた。翌朝、いよいよ私のアメリカ大陸横断一人旅が始まった。25歳の夏のことである。