渡 米

 宇部高校に二年間勤めた後、グラブス師やスマイス教授の奨めでアメリカの黒人大学に留学した。昭和三十二年の夏だった。

 当時、渡米留学するには全額奨学金を貰うか余程しっかりした経済的裏づけがなければならなかったので、留学生は余程の資産家の子女かエリートに限られていた。私はそのいずれにも当てはまらないのに渡米の夢が叶ったのだから幸運者だった。ペンシルバニア州の黒人大学から連絡があり、アジアの学生のための奨学金が一人分あるので神学大学院で三年間学ばないかと誘われた。

 英語の教師をしていていつももどかしく感じていたことは、英作文の授業の時に生徒が書いてくる英文が文法的には間違っていないのに英語として熟していないと感ずる時に、どこがどのように不自然なのかを生徒が納得できるように説明が出来ないことだった。また、英米の生活の底流にあるキリスト教事情が理解できていないと英米文学を理解し難いということも気になった。後に、ある英文学者が「日本の英文学にはキリスト教の色が希薄である」とコメントしているのを知って同感した。山口大学時代の恩師、詩集「薔薇物語」の著者、上田敏雄先生が「詩は人間と神の接点での摩擦から生まれる」と話して下さったことも私の頭に引っ掛かっていた。

 アメリカの神学校で教義や教会史を学び、アメリカ社会で数年間生活をすれば、より良い英語教師になれると思ったので苦労覚悟で留学を決断した。その頃、飛行機や客船で渡米することは不可能に近かったので私には貨客船で渡米するしか方法は無かった。昔船乗りだった渡壁先生のアドバイスで上京して直接船会社と交渉することにした。東京駅の八重洲口で「船会社はどこにあるのだろうか」と考えていると、突然私の名前が呼ばれた。振り返ると、小学校から高校卒業まで同級だった友人が立っていた。鶴丸祐介君である。事情を説明すると、彼は新日本汽船で働いていると言って事務所に案内してくれて即決で乗船が許可された。当時、海外への旅費はドルで支払わなければならないので日銀にドル払いの申請をして許可を受けなければならなかった。文部省や日銀に複雑な書類を提出してやっとの思いで七万五千円分のドルを貰ったが私の乗る木曾春丸には一等客室しか空席がなくて、旅費は十万円必要だったが、鶴丸君の口ぞえで残金は円で支払ってもいいことになり私の渡米実現に目鼻がついた。

 九月の新学年に間に合うように、夏休みに退職して出発した。宇部駅(現在の宇部新川駅)を出発する時、駅前で壮行会が行われた。教頭先生がビール瓶の空き箱の上に立ってみんなで万歳を三唱して送ってくれた。気を利かした駅は列車の発車に合わせて「蛍の光」を掛けてくれた。その頃、渡米することはそれ程の大事件だったのである。

 東京に一泊して翌朝横浜へ行くことにして、東京駅の喫茶店で一息入れていると「利夫くんじゃないの」と言って叔父がやって来た。日本橋のオフィスで働く母の弟の中川忠夫氏(「情報の科学」の著者)が偶然同じ喫茶店で一服していたのである。その日は叔父の家に一泊して翌朝、叔父が横浜まで送ってくれた。

 七千トンクラスの貨客船もそばに立つと大きいが、横に停泊している豪華客船クイーン・エリザベス号の巨体に比べると小さく見えた。出航のドラが打ち鳴らされ、乗客はたった八人なのに何百本もの五色のテープが投げられて、まるで映画の一シーンのように船はゆっくり離岸した。やがて東京湾を出る頃、夕闇の中に陸地がかすかに見え、一際赤い夕日が淋しかった。手すりにもたれていると横の若い船員が「もう何十回も出航しているけれど、東京を出る時はなぜか涙がでるんだよね」としんみりとした口調で言った。


 
最初はアリューシャンの方角へ北上したので数日すると小雪が舞うほど寒くなり船室に暖房が入った。一度だけ、潮を吹く鯨を見かけた。午前八時に八人の船客は船長、事務長、機関長、一等航海士、船医と一緒に朝食をとった。食後、デッキの寝椅子で休んでいると客室係りが毛布を脚に掛けてくれた。そしてやがて昼食の時間になった。朝食後、時計を現在地の時刻に合わせるので船が東進する時は朝食と昼食の間が短くなる。北東に進む時はいいが、真東に進むと昼食までの時間が余り短くて食欲が無いこともある。でも、三時にはおやつと飲み物が出るので空腹になることはない。最初のうちは八人の船客は揃って食事をとっていたが、船酔いしたり、朝、起きられなかったりで、朝食をとる船客は私と同室のアメリカ人の青年を含めていつも六、七人だった。

 
しばらくすると、船のボスは機関長だということがだんだん分かってきた。就寝の前に機関室で機関長や機関室の船員と一緒に食べる夜食の味は格別だった。

 ある日、船長が日付変更線を横切ると話してくれた。船客が全員デッキに出ると「あそこに線が見えるだろ。あれが日付変更線だよ」と船長が指差した。二人の女性の乗客が「どこなの。見えない」と言って大騒ぎした。

 
船は自動操舵になっているが、羅針盤を見ながら手動で操舵することも出来る。一度試してみたが真っ直ぐ走るのも難しかった。というのは、頭では羅針盤の針が右に振れる時は船は左に向かっているということは分かっているが体が反応しないからである。

 無線室の直径十センチもある大きな真空管の真っ赤なフィラメントがゆらゆら揺れる様は幻想的で楽しい。やがて、日本のラジオ放送が聞こえなくなり、数日するとハワイの音楽が聞こえて来て、船が確実にアメリカに近づいていることが実感できた。

 十二日目の夜、レーダーにカリフォルニアが映った。翌朝、船長は珍しく制服を着て操舵室にいた。アメリカ大陸の西海岸に沿って南下しながら陸地に近づいて来るとハイウエーを走る明るい色の車の列が見えるようになり、正午過ぎにサンペドロに着岸し、十三日間の太平洋の旅が終わった。

 貧相な岸壁に白い布を張った机が二つ並べられて荷物と査証の検査があった。入国時に日本の国立病院で撮影した胸部レントゲン写真と寄生虫がいないことの証明書の検査がある時代だった。八人の乗客の一人の女の子は糠づけが無ければ生きていけないと言って糠味噌の大きな樽を持参していたが、検疫官は「腐っている」と言って糠味噌樽を廃棄処分したのでその女性は泣いていた。

 グラブス師のご両親が埠頭まで迎えに来てくれてロスの自宅に連れ帰ってくれた。