市立菊陵中学校 大学時代にお世話になったグラブス師が昭和二十四年に休暇で一時帰国する途中でフィリピンに立ち寄り、マニラ近郊のユニオン神学校から私のために奨学金と留学許可をとってくれた。
フィリピンは巡洋艦那智がマニラ湾で撃沈された時に叔父が戦死したところで、前々から行ってみたいところだったし、敗戦後間もない頃の、将来の不透明な日本には海外へ出ることで活路を見出そうという時流のようなものがあったので躊躇せずにフィリピン行きを決めた。ところが、ビサ取得のために東京のフィリピン大使館に何度となく足を運んだが、日本軍の数々の残虐行為が問題になっている時期であり、国交も樹立されていなかったので、結局ビサはとれずこの話は没になった。
一つのことに固執せず、出たとこ勝負といったいい加減な面もあり、どうせ降って湧いたような話だから没になったことを苦にすることはなかったが、せっかく決まりかけていた就職が宙に浮いてしまったので大学を出ても就職口がなかった。しかし、当時は学士号がまだ価値があり、卒業生は百パーセント就職できた時代だから、そのうちに就職の誘いがあるだろうと家でぼんやり過ごしていた。
すると、六月に北九州の菊陵中学校の事務長から、英語の教員に一人欠員があるので就職しないかという連絡が入った。どうせ遊んでいるのだから教えられるだけあり難いと思い、二つ返事でこの中学校で教えることにした。これが私の最初の勤務校である。
この学校は市内でも優秀なほうで、熱心な生徒も多くて授業は楽しかった。町の中の学校なので商店街や高級住宅地からの生徒が多く、特に女の子は垢抜けした美人で、おませな子が多かった。色白のC子は真っ黒な短い髪の下からきつい目で睨む癖があった。この端整な顔立ちの生徒は中学一年生なのに下ネタ話が好きで、時々ドキッとするようなことを平気で口にして若い私をドギマギさせた。O子は大会社の社長令嬢で、いつも上品な服を着て、真面目でよく勉強した。私の好物がチョコレートだと知ると、当時では庶民の手には入らないマーブルチョコレートをよく持って来てくれた。O子の家は学校と町の中間にあったので、数人で連れ立って帰り、時には家に招かれてお茶を戴くこともあった。O子には姉がいて、O子に言わせると私に興味があるということだったが、話し声や笑い声は聞いたことがあったが、ついぞ姿を見たことは一度もなかった。最も目立っていたのはI子だった。大柄で腰まで伸びた髪と、大きな目と口が特徴だった。父親は病気で母親が魚町に店を出して細々と生計をたてていると聞いていた。ある日、体育祭のダンスの練習を見ていたら、他の生徒は白い運動靴を履いているのにI子だけは素足だった。放課後、校門のところでI子に出会ったので、なぜ運動靴を履かないなのかを尋ねると、大きな目で数秒間私を見て、吐いて捨てるように「持ってないからです」と言った。私も人並みの学用品が買ってもらえず辛い思いをしたことがあるので胸が痛んだ。そこで、一緒に町まで歩いて行き、靴を買い与えた。次の練習の時、真っ白な運動靴を履いたI子は私を見つけるとにっこりして小さく手を振った。その後、I子とは買い物をしたり公園を散歩したりした。後に、私が渡米したときには何度も手紙をよこして近況を伝えてくれた。高校の修学旅行の記念写真や海水浴場でのまぶしいような水着姿の写真も送ってくれた。
多くの中学校や高等学校で最も幅をきかせているのは体育の先生である。と言うよりは、体育の先生の中には必ずと言っていいほど幅をきかせて態度の大きい先生が一人や二人はいるものだ。体と声が大きいからなのかも知れないが、もしそうだとすると、先生の集団にも猿の集団と同様の社会構造があるのかも知れない。体育祭の入場行進を練習している時「歯を見せるな!」と大声で怒鳴り散らすのは体育の先生だった。子供たちが楽しそうにしていることにどのような不都合があるのだろうか、なぜ生徒をマリオネットのように操らなくてはならないのかと私は腹立たしく思った。
中学校の運動会の日の私の日記に「個の集団が 個であるはずがないのに 何らかの枠の中で ピノキオのダンスを観たい人たちが 陽よけの帽子をかなぐり捨てて ほおら、大分ご執心だ」「子供たちは泣き面 バザーは大繁盛 脚も腕も棒のように玩具のマーチ ラッタッタ」「同じ表情の 子供たちは ごめんだ 白い歯が沢山見えて 跳び上がって喜んで ゲンコツも怒号もデスマスクもない そんな運動会にしたいのに」と書いてある。
最近、全国高等学校の体育祭の入場行進で、生徒たちのはじけるような笑顔をテレビの画面いっぱいに見た。殆どのグループは足並みもばらばらだが、若さと楽しさが見てとれた。これが若者の入場行進だと思った。日本で開催されたワールドカップの時の国境を超えた応援の様子を見て、日本もよくなったと少し安心している。
体育祭のあとには恒例の「打ち上げ」がある。主役の体育の先生が一段と幅をきかす。体育祭の内容の反省をするわけでもなく、単なる飲み会である。先輩の教師が後輩に飲酒を強要するのが一般的な習慣だったので飲み会は苦痛だった。およそ、強要されて酒を飲むほど馬鹿げたことはないと思う。最近はそのような悪習は姿を消し女性を含む多くの人が楽しく酒を嗜むという本来あるべき形の「文化」が根付いたことは進歩だと思う。
中学で英語を教えるには体力と忍耐が要る。来る日も来る日もABCやThis is a pen.を教えることは、英米文学の研究を志す私には苦痛だった。しかし、後に高等学校、大学で教鞭ととるようになって感じたことは、教場で教えることと自分の研究とは別のことだということである。全く関係が無いわけではないが、別の意味での生甲斐がそれぞれにあるものだ。このことに気づかなかった私は随分未熟だったと思う。現在も小学生から社会人までに英語を教えているが、どのクラスを教えても楽しいという境地にようやく到達したようだ。
菊陵中学の事務室には小学校時代の恩師と、小倉高校在学時にデュエットの楽しさを教えてくれた二年後輩の素敵な女性が働いていたので楽しかった。羽目を外したこともあったが、当時の私はアメリカ留学のみを目指していたので授業以外のことには余り身が入らず、利己的な人間のように思われていたようだ。振り返ってみれば「あのようにすればよかった」「あのようにしなければよかった」後悔することが多いが、若い頃は視野が狭いのだろうか、多くの人に迷惑をかけて生きてきたような気がする。