宇部高校のガランとした職員室の中央に大きな石炭ストーブが据えてあり、授業のない先生はその周りに集まって暖をとった。余りストーブの近くに寄るとズボンの毛が燃えてツルツルになるほどの豪勢な火だった。さすがに炭鉱で栄えた町である。ストーブを囲んでの雑談は無駄話のようで実は情報収集と教員間の意志疎通の良い手段だった。

 男子生徒は丸坊主、女子生徒は黒の木綿のストッキングの着用を義務付けられていたことを私は奇異に感じた。「髪の毛を伸ばしていては勉強に身が入らない」というのがその理由なのだが、小倉中学時代の松井先生の「髪を切っても戦争に勝てない」という言葉を思い出した。黒いストッキングを履いた女子生徒はパリの街角に立つ娼婦を連想させた。職員会議で規則撤廃を主張したが「君は若い」の一言で一蹴された。今でもパーマを掛けてはいけない、短いスカートはいけないと規則で縛ることが躾だと思っている高等学校があるが陳腐である。自分に一番合った服装を自分で判断できるように育てる為には規制から解き放ってやらなければならない。それが「教養」なのだと思う。団体生活をするのだから大きな枠になる約束事は必要だが、その枠の中では自由に考えさせなければ人は育たない。

 宇部高校の私の担任のクラスでは、私の授業の時には服装もお化粧も髪型も自由にした。休み時間に後ろの席の生徒が前の席の友達の髪を編む姿は可愛い。小さな鏡を出して薄く、薄く口紅をつけている生徒が教室に入って来る私を見て恥ずかしそうにニッコリすると心がほぐれた。「自由」とは自分で理由を考えて行動することなのだということを忘れてはならないと思う。

私の知っているある高校では、毎日廊下や下駄箱のところで生徒の服装を注意する先生がいる。校門を出るや否やスカートの上を折り曲げてミニスカートにしている生徒の行動の実態を教師が理解しているとは到底思えない。服装検査の日に係りの先生が二階の階段のところに仁王立ちになって生徒を監視することが躾だとは私は思わない。女生徒がスカートを折って短くすることが出来ないような材質とデザインを取り入れている高校があると聞いたが、これも教育の邪道なのではないだろうか。

 少し前のことだが、女子高校生はパーマをかけたり毛染めをすることを禁止されていた。(現在も禁止事項なのかも知れないが)全校朝礼の時、パーマをかけていると疑われた生徒の髪を先生が水で濡らして調べる高校があるという話を聞いた。ある高校の校長先生は「生徒がパーマをかけていないと言うのならば、その生徒はかけていないのです。私は生徒のことばを信じます」と言った。その校長先生は「この高校の生徒には品位があるので、どのような服装をしても、どのようなカバンを持っても品があるのです」と言った。その話を生徒に話したら「そのように言われたらおかしな服装はできないよね」と言った。健全な変化は内側から起こるものなのである。

時代が違うのでストレートに比較することは出来ないが、昔の小倉中学の波田野校長は朝礼の時に運動場に置かれた台の上に立ち、整列した生徒を一渡り見回してから「口を結べ。口を開いているような者は心に締りのない証拠である」と一言言って台を下りたという話を聞いたことがある。何度も同じことを繰り返して説教するのではなく、生徒一人一人の心に問題を投げかけて考えさせた波田野校長の態度には人間性の深さが見える。式典の後で万歳三唱をリードする波田野校長は「小倉中学万歳」と言ってハラハラと涙を流されたという。「小倉中学、偉大なり」という意味の校章を帽子につけた生徒はその名に恥じないように振舞うことを波田野校長に習ったのであろう。

私が宇部高校で教えていた頃は偏差値はまだ導入されていなかった。生徒の学力は授業とテストを通して教師の感で判断していたので曖昧なところもあった。客観的な学力査定に偏差値が役立つことは明白である。しかし、生身の生徒を偏差値だけで評価することは教育の邪道ではないのだろうか。最近のパソコンのソフトには生徒の成績をインプットすると希望する大学への合格率が表示されるものがあるようだ。「これさえあれば、生徒の進路は一目瞭然です。文句は言わせません」と自慢げに話す進路指導の教師の植物的な、おぞましい顔を思い出す時、偏差値の無い時代に高校教師をしていたことは幸いだったと思う。

宇部高校では夏休み中にクラス担任が生徒の家を一軒ずつ回る家庭訪問があった。私は自転車で数日かけて宇部中を走り回った。東岐波の農家ではどこの家庭でもお土産にスイカを戴いた。有難いが自転車に五個も六個もスイカを積んで走るのには体力が必要だった。中山観音を通って、疲れ果てて藤山までたどりついて、もう一息で帰宅できると思ったら、サイダー工場をやっている家庭からサイダーを二ダースも戴いた。自転車の前後にスイカとサイダーを積んで家に着いたら玄関に倒れこんでしまった。疲れたが心温まる経験だった。

他の先生も似たり寄ったりの経験をしていたようだ。渡壁先生がある生徒の家庭に行った時、客間に通されるとその頃では滅多にお目に掛れない饅頭が山のように出された。ふと見ると襖が少し開いていて小さな子供の六つの目が隙間から覗き込んでいるのが見えた。母親がお茶をいれようと席をたつと同時に襖がサッと開いて三人の子供が突進して来てテーブルの上の饅頭を掴んで逃げて行った。一瞬の出来事にあっけに取られていると母親がお茶を持って入って来た。先生は今起こった事件を母親に話すべきかどうか迷ったが、結局言いそびれてしまった。その時の母親の驚いた顔を思い出して「あんなに困ったことはなかったね。もう、あの家には二度と行けないよ」先生は述懐していた。

宇部高校で教えていた頃の私は二十三才だったので元気が余っていて昼休みには生徒と相撲をとったり野球をしたりして遊んだ。三年生の猛者で柔道の得意な生徒がいてよく放課後柔道をしたり、私の家で食事をしたりした。英語の先生の息子で一年下の女生徒と付き合っていた生徒がいたが、家柄が違うという理由で親がデートを許さないので私の家でデートをしていたこともあった。

楽しい思い出を沢山作ることの出来た宇部高校での二年間は楽しかった。今でもその頃の教え子にマーケット等で出会うことがある。皆、還暦を過ぎて初老になっているが私と話す時だけは高校生に逆戻りして、昔のように体を捻ったり跳ねたりして大笑いする。私は一生大金持ちにはなれないが、思い出のいっぱい詰まった人生は掛け替えのない豊かな人生だと思う。幸せとはこのようなものなのだろう。

最近、いじめの事件が多く報じられるが、いじめは昔からあった。私は同級生や上級生にいじめられた経験はないが、小学校の頃にある先生に皆の前で嫌味を言われた経験はある。宇部高校の教師時代にも職員室で先生たちから「いじめ」を受けたことがある。私は大学生時代から通訳をしていたので学校内外で通訳の仕事を頼まれることがあった。当時は英語を話すことは重要視されないどころか馬鹿にされていた時代である。職員室の片隅で「横浜に行けばタクシーの運転手でも英語を話すよ。私たちは英語屋ではなくて英語教師なんだから、英語なんか話さなくても構わないさ。それに新制大学なんか駄目だね。矢張り、旧制でなくては大学ではないね」と大声で話すのが聞こえた。私は新制大学の二期生だし、職員室では一番若い教師だったので、他の先生は皆旧制大学出身である。だから、コメントは明らかに私に向けた嫌味だった。その時、私は「いいだろう。英語屋になってやろうじゃないか」と心に誓った。当時、海外での生活を経験した人は少なかったので使える英語の大切さが理解されていなかったのである。しかし、商船で世界中を回っていた経験のある渡壁先生はいつも私に理解を示してくれた。大学時代にある教授にいじめられた時も他の多くの教授から暖かく支持されたので勇気が出たのだと思う。いじめをバネにして飛躍するためには誰かの支えが必要なのかも知れない。

宇部高校を辞めて渡米する時、校長から退職せずに休職にして、留学が済んだらまたここに帰って来なさいと言われたが「帰国したら高校では教えません。大学で教えます」と大見得を切れたのは若さのなせる業で、今思い出すと冷や汗がでるが、これで退路を断って頑張れたということも事実である。

宇部在住時代に熊谷鉄太郎という全盲の牧師さんに出会った。小松原の田んぼの中の小さなメソジスト系の教会の牧師だったように記憶しているが、私は寿町にある長老派の教会でお会いした。ストーブを囲んで聖書の講義をなさっていたが、最初は全盲だとは気付かなかった。一人の青年がちょっと遅れて入って来た時、先生は「少し窮屈になりましたから、そちらの方はもっとこっちに寄って下さい」と指示なさった。ご自分が大分へ行った時のことを話されるときに「大分駅で汽車を降りると駅のそばに菜の花畑が広がっていて、それはそれは綺麗でした」と話された。熊谷先生は三歳の時に失明されたが、英語、ラテン語、ギリシャ語に堪能だった。若い頃はプノンペンで宣教の仕事をなさっていて、東南アジアのクリスチャンのために新聞の発行も手がけたそうだ。琴芝通りの本永手芸店の主人が熱心なクリスチャンで離れに熊谷先生が住んでおられた。

ある日、私が宇部新川駅からバスに乗ると熊谷先生が乗っておられた。「熊谷先生、今日は」と声を掛けると「ああ、三根先生。お元気そうですね」とお答えになった。一度しか会っていなくてもちゃんと名前まで記憶さなさっていることに感銘を受けた。教室で何年も教えていても生徒の名前を覚えない先生がいるが、実に教師失格である。先生の著書「薄明の記憶」は感動の連続である。何冊も持っていたが、何度も転居するうちに散逸してしまった。まだ所蔵している方が居ればお貸しいただきたいものである。後に私が渡米してアメリカ兵と結婚した日本人のための「日本聖書会」を設立した時に会員にこの本を読んでもらった。ある婦人は「このような境遇の方がこんなに明るく生きられる秘訣はどこにあるのだろうと不思議に思いました」と述懐した。

 宇部高校には西村先生という日本史の先生がおられた。瀬戸内海の交通史の研究が専門で英文の論文の校正を依頼されたことがあったが、素晴らしい英文で私の英語力などは足元にも及ばなかった。定年で宇部高校を辞してから宇部女子高校で教鞭をとられていたが、常に謙虚で柔和な方だった。本当に優れた人は「みんなにでくのぼーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず」生きているのだと思う。「そういうものにわたしはなりたい」。