県立宇部高等学校

 中学校に赴任した翌年の五月に山口県の宇部高校の校長が、大学の英語主任教授から私がフィリピン留学を断念して中学で教えていることを聞いたと言って、六月から宇部高校で英語を教えないかという話を持って訪ねて来た。宇部は大学時代に私が最初に通訳の仕事を引き受けた町だということもあり、親近感を持てたので即座にこの勧誘を受けることにした。

 当時の宇部高校は県下屈指の進学校で教え甲斐のある職場だった。面倒見のよい教務主任夫婦の世話で、息子の英語を教えるという条件で、建築会社の社長の家の離れに住まわせてくれることになった。近所に大きな旅館があり、主人の好意で、お客の少ない時には旅館の風呂に入れてもらった。庭を眺めながらヒノキ風呂を堪能し、風呂上りによく冷えた果物をご馳走になるという夢のような生活だった。今は旅館のあとにマンションが建っているが、古い井戸は当時の場所に残っている。

 宇部は自然の豊かな住みよい町である。宇部高校には優秀な先生が多かったが、英語の教師で最もユニークなのは渡壁先生だった。商船学校を出て外洋船の機関長をしていたが、海が怖くて英語教師になったのだそうだ。専門はスペイン語だった。五人の子持ちで生活は苦しいということだったが、闊達な性格で教育に関しては誰にも真似出来ないほど熱心だった。当時はまだ自動車が普及しておらず教員の中で自家用車を持っている者は皆無だったが、進取の気性に飛んだ渡壁先生は重荷用自転車に小型ガソリンエンジンをつけたものを運転して通勤していた。雨の降る日に私たちが傘を片手にやっとの思いで自転車を漕いで坂道をのろのろ登って行く横を、快音を残して颯爽と走って行く先生は得意げだった。

 後になって分かったことだが、先生は親のいない朝鮮半島出身の生徒を二人も自分の戸籍に入れて育てていたのだそうだ。「渡壁さんは五人も子供を作って、本当に精力家だね」と同僚に冷やかされると、「それだけが取り柄だからね」と笑い飛ばして、決して真実を明かさなかった先生は真の博愛主義者だったと思う。

宇部高校に赴任する前に、先生は田舎の高校で英語を教えていた。教科書にテーブルマナーの話が出てきた時、まだ正式の西洋料理を食べたことも見たこともない生徒のために、五十人分の食器を揃え、五十人分のディナーを作って食べさせたということを聞いた。

先生がまだ商船学校の学生だった頃、遠洋航海でポナペ島(現在のポンペイ)に寄港し、数日を過ごし、現地のある女性と親しくなったという。卒業後、商船に乗るようになり、たまたまポナペ島に入港した。下船が許可されると胸をときめかして丘の上にある彼女の家を目指して坂を駆け上がった。しかし、玄関に出て来た彼女は先生のことは全く覚えてなくてキョトンとしていたそうだ。「女はこわいね」と先生は話してくれた。

定年退職後、先生は単身ポナペ島に渡り、カトリック教会の敷地内に小さな家を建てて住んでいた。雲の掛かった山から流れて来る美しい川の水を飲み、魚が食べたくなったら小さな船で海に出て必要なだけ魚を採り、暑い日中は木陰で昼寝をし、好きなだけ本を読む生活に満足していたようだ。「現地の人の言うことは全く当てにならないね。明日来ると言ったら、来ないと思わなければならない。あの人たちにはカレンダーも時計も意味を持たないないんだから」と言う先生はポンペイにすっかり惚れ込んでいた。一時帰国する時には自分の家を現地の人に自由に使わせていたのだが、その間中絨毯を裏返しにして使い、先生が帰る時にはちゃんと掃除して待っていてくれるのだそうだ。「うそばかりついて、ごまかすのが上手だけど、本当に可愛い人たちだよ」と言いながら先生の目は優しく輝いていた。後にポナペ語の辞書を出版して、私も数冊持っていたが、何度か転居するうちに紛失してしまった。残念なことだ。宇部高校の図書館には残っているかも知れないのでそのうちに探してみようと思っている。

宇部高校では、新任の私は女子クラスの担任になった。最初の父母参観日に最後まで残っていたI子の母親が「先生は長男さんですか?」と尋ねた。私が次男で末っ子だというと、将来、娘の婿養子になってくれないだろうかと言った。I子の父親は炭坑を幾つも経営している資産家で子供は二人とも女の子だった。I子は神経質で汚いものには触れたことのないような指は透き通るように白く細かった。現在の私なら、躊躇せずに大会社の社長の座を狙うのではないかと思うが、当時の私は渡米留学することだけにしか興味がなかったのでこの話は没になった。二年後に私が渡米留学する時、I子の父親は盛大な送別会を開いてくれて私の三か月分の給料に相当する餞別を下さった

印象に残っている生徒の一人はY子だった。無口でおとなしかったが、お洒落で、制服の上着は短めに仕立てたものを着ていた。襟のV字型の開きが深めに切ってあるのでスマートに、そして少し大人びて見えた。家が近所だったので何度かお茶を飲みに行ったことがあった。私が渡米する前日の夕方、近所の小学校の運動場で会う約束をした。青っぽい花柄の浴衣を着たY子が近づいて来ると湯上りの香りがした。何を話したのか覚えていないが、別れ際に、私がアメリカへ行っても手紙を交換すると約束の指きりをした時の初めて触れた小指の感触を、半世紀も過ぎた今でも忘れない。二十五才と十七才の淡い夏の夜の出来事だった。

宇部高校の体育の先生は他の先生から一目おかれた人物だったが、前任校の体育の教師のような押し付けがましいボスタイプの先生ではなかった。生来大人しい人柄だったのかも知れないが、今になって考えてみると、もっと声の大きな先生がいたからなのかもしれない。所詮、人間社会の勢力地図は、このような単純な原理で描かれていても不思議でない気がする。

宇部高校の合唱部は優れた音楽教師の指導があり、毎年全国大会で優秀な成績を収めていた。私は合唱部の副顧問として地方予選大会に出場するときには引率をすることが多かった。萩市で県大会が開かれたとき、昼休みに会場の外で生徒たちと雑談をしていると、他の高校の女生徒が近寄って来て「三根さん」と呼んだ。山口大学付属中学校に教育実習で行った時に出会ったN子だった。彼女は、いわゆる文学少女で「毒薬を宝石のように飲んで・・・」といった詩を書いて先生を驚かせるような鋭い感性の持ち主だった。今考えると、彼女には俵万智のような凡人を寄せ付けないような才能が潜んでいたのかも知れない。

二年ぶりに会ったN子は「お元気そうね」と言ってさっさと踵を返して帰って行った。「あの人、何者なの?」と驚く生徒たちの声を背中に聞きながら私はN子のまぶしい後姿を見送った。N子は戦後初のスクーターのセールスガールになったという風聞を耳にしたが、その後の消息は分からない。