小倉中学校時代

 小倉中学と言えば当時の名門校である。ここに入学すると校章の焼印のある三センチ幅、十センチ程の長さの板の名札を玄関の表札の横に掛けることが出来る。学区制のない時代だから市外は勿論、県外からも志願者が殺到した。昭和十九年に日明小学校(当時は国民学校)を卒業して小倉中学に入学したのだが、戦時中だったからなのか筆記試験ではなく幾つもの教室に設けられた試験場を順番に回って歩き口頭試問を受けただけで合格した。日明国民学校からは六人か七人合格した。

 数学の試験場では数個の歯車が描かれている紙を見せられて「アの歯車を三回転させるとエの歯車は何回転するか」といった問題を立ったままで暗算して答える問題だった。入学試験の準備をするような時代ではなかったが、それでも家庭教師について勉強して受験する者もいた。

 資源が不足している時代なので、中学校でも英語の教科書以外は貧弱で色刷りのものはなかった。姉の女学校の英語の教科書には英国国歌が載っていたが、それもなかった。最初の英語の授業で、担当の松井先生はいきなり英語の詩を黒板に書いた。

What does a little birdie say,

In her nest at peep of day?

“Let me fly!”

「英語は美しい言葉だから、リズムを覚えることが大切だ」と言って、アルファベットも知らない生徒にこの詩を何度も繰り返して読んでくれた。次の時間に習ったのはアルファベットの字と発音の関係だった。「英語の字には名前と声がある。でも、いつも同じ声とは限らない。幾つもの声を持っている字もあるけれど、字をよく知っていると声で字の名前が分かる。太郎君が家に帰って『ただいま』と言うと、『太郎です』と言わなくてもお母さんは太郎君が帰って来たことが分かる。太郎君がふざけて変な声で『ただいま』と言ってもお母さんはなかなか騙されない。Aの名前は『エイ』だけれど、声は『ア』とか『エイ』とか沢山ある」といった調子で教えてくれた。子音の声と母音の声を組み合わせて発音させてローマ字との違いを時間をかけて教えてくれた。最近「フォニックス」という英語教授法が脚光を浴びているが、松井先生の教え方はまさに「フォニックス」だった。

 祖父、中田亀太郎がアメリカ帰りだということもあり、小さい頃から英語に親しんでいた私は英語の授業が一番好きだった。教科書は暗記するまで何十回も読んだ。授業中に当てられて教科書を読む時、教科書を顔の高さに持って読むのがその頃の習慣だったが、私はそのような読み方が嫌いだったので教科書を胸の所に広げて読んだ。「三根君はなぜ教科書をそのように持って読むのかね?」と松井先生が尋ねた時、叱られるのかと思って急いで理由を考えて「英語は発音が大切なので、先生から口が見えるようにと思ったからです」と答えると先生は「君は天才だね!」と言ってニッコリ笑った。その時から私のあだ名は「英語の天才」になった。そして「僕は英語の天才だ」と思い込んだ。

 いつも貧乏ゆすりをする生徒がいた。松井先生は「こら!カタカタ音を立てるのはよしなさい。お前のお父さんはチンドン屋か?」と言ったので皆大笑いした。その時からその生徒のあだ名は「チンドン」になった。今時ならば「人権侵害」と言って問題になるところだが、当時はそんなちっぽけなことに目くじらをたてる者はいなかった。人々はもっと大らかだったのだろうか。今でも同窓会で出会うとみんなが彼を「チンドン」と呼ぶ。「英語の天才」と言われた私はラッキーだった。

 当時の先生のなかには、時たま体罰を加える先生もいたが、松井先生は決して生徒に手を上げなかった。しかし、注意散漫な生徒がいると、机の間の通路に寝かせて「君のお母さんは、なけなしのお米を炊いてお弁当を作って君に持たせてくれたのだろう。お母さんは自分は食べなくても君のお弁当を作ってくれたのだろう。もし、今、お母さんが学校に来て君が通路で寝ている姿を見たら悲しむだろうね。君はそう思わないかい?」とこんこんと言ってきかせると悪童たちも涙を流して反省した。

 戦時中なので、先生も丸坊主になり軍帽をかぶっていたが、松井先生だけは髪を切らなかった。ある時、授業中に先生は「髪を切っても戦争には勝てないよ」と言った。多分、職員室でも髪を切らない松井先生には風当たりが強かったのだろう。英語を敵性語と言って軽視する傾向があったが、松井先生は「敵の言葉を知らなければ敵の考えは分からないし、戦争には勝てない。たとえ勝ってもその国を治めることができない」と言った。

 食糧難の時代だったので、学校の校庭にも野菜を植えていた。放課後松井先生の畑仕事を手伝ったことがよくあった。収穫した小松菜を足洗い場の水道の水で洗って、二つに分けて先生が器用に藁で縛って持たせてくれた。松井先生の家は私の帰り道だったので、よく一緒に帰った。ある日、先生のお宅にお邪魔した時、本棚から西洋の画集を取り出して見せてくれた。戦時中ではご法度だった裸婦の絵だった。先生は「このような美しいものには敵も味方もないんだよ。人類全体の宝なのだから大切にしなくてはね。この美しさが分からない者がよその国を占領しても馬鹿にされるだけだよ」と言った。それから、先生はイタズラっぽく笑いながら私を奥の書斎に案内してくれた。そこには大きなコタツがあり、布団が掛けてあった。先生が布団の端を持ち上げて手招きするので先生と一緒に布団の中に首を入れるとそこには蓄音機があった。「音が外に漏れると憲兵から逮捕されるから布団の中に首を入れて聴かなければならないのだけれど、フォックストロットというアメリカの音楽なんだよ」と言って小さい音で何枚もレコードを聴かせてくれた。

 毎晩のように米軍機の爆撃があり、国中に捩れた排他的な愛国熱が蔓延していたあの頃に私は松井先生に真の教育を受けたことを誇りに思うし、幸いだったと思う。

 戦時中だったか終戦後だったかはっきり記憶に無いが、同級生の江頭君と彼の二人の弟と四人でよく日明の海岸に泳ぎに行った。今は日明海岸は埋め立てられて海岸は残っていないが、鹿児島本線は海岸のすぐそばを走っていた。私たちは堤防から海に飛び込んで潜って堤防についている貝を採ったりした。だから、今でも私は潜水が得意で、ハワイやグアムに行く時には必ず素もぐりの道具を持って行く。玄界灘には米軍の落とした機雷が沢山浮遊していて時には機雷に触れて沈没する船を見た。沖に大きな水柱が見えてからしばらくすると爆発音が聞こえ、水にはいっていると腹に振動を感じた。船を持っている人は沈没船から積荷を引き上げて売りさばいていた。半分腐敗した大豆も当時は大切な食料だった。匂いを消すために味噌で炒めて食べていた。お陰で私は今でも大豆が余り好きではない。

 戦時中から戦後にかけての食糧難は辛かった。子供よりも一家の食をあずかる母親の苦労が大変だったと思う。食料は配給制だったので、不足はしたが、飢え死にすることはなかった。

 二年生になると特別クラスが編成された。四組は文系組で五組は陸海軍組だった。私は希望して五組に入った。陸海軍組の生徒は陸軍幼年学校・士官学校へ進むか、海軍兵学校へ進むのである。私は海兵組を志願した。海軍を志願した理由は海軍士官は髪を切らなくてもいいということと、外国へ行けるので英語が役に立つと思ったからだ。海軍士官になって銀の短剣を腰に下げることも夢だった。陸海軍組は色々と優遇され、軍役奉仕に出動せずに学校に残って勉強が出来た。しかし、宗像の宮地嶽神社に寝泊りしての海洋訓練が課せられ、津屋崎海岸で鉄舟を漕いだり、潜水訓練、モールス信号、手旗信号の訓練が強制された。現役の海軍の下士官が全体責任という名目で私たち全員を並ばせて海軍精神注入棒で叩くのを見て、松井先生は「馬鹿だね」と吐いて捨てるように呟いたのを私は聞き逃さなかった。先生は徹底した平和主義者だったのだと思う。