昭和三十八年に、六年間のアメリカ留学を終えて帰国した時、私は広島県に住んでいらした松井先生に電話を差し上げた。年を召されて少し弱弱しくなった声で「三根君、よく覚えていてくれたね。有難う。君の席は窓側から二列目の前から二番目だったね」と言われた。
物理の時間も楽しかった。明治工業専門学校(今の九州工業大学)の助手をしていた、小倉中学の先輩の藤田哲也先生が担当だった。いつも新しい工夫をしてきて生徒を惹き付けた。傘の柄に自転車の車輪を付けたものを持って来て車輪を勢いよく回してみせた。何が始まるのだろうと思っていると、最前列の生徒に「この柄を持ってごらん。ちょっと傾けてごらん」と言った。傾けようとしても元の位置に戻ろうとする力が働くのでなかなか傾けられないことを学ばせた後で、先生は慣性の法則を教え、地球の自転の原理を教えてくれた。
藤田先生は全員に毎日午前六時と午後六時に自宅の風向きと風力を記入した表を提出させた。時々朝寝をしたり忘れたりして友達の書いたものを写したり、あてずっぽの数字を書いて提出すると「君の家ではそのような風が吹くはずがない」と咎めた。当時、先生は地域気象の研究をしていたと後で知った。機械科出身の藤田先生の気象学の論文は日本では受け容れられず、戦後渡米してアメリカの大学で気象学の研究を続け、特に竜巻の研究で成果を挙げた。竜巻の強度を表すFはFujitaのFである。最近、先生の記念館が北九州市に作られた。
藤田先生の星座の授業も面白かった。足立山の形をした板に回転する星座表を付けたものを作って、星を見る時に足立山に板の足立山を合わせて星座表を回転させて星の位置を確認するのである。私が星に興味を持つようになったのは藤田先生のお陰である。
自転車に小型エンジンを取り付けたものに乗って曽根の自宅から通勤したり、電動洗濯機を作った先生は私の憧れだった。もっとも、先生手製の洗濯機はスイッチを入れると床の上を飛び回って使い物にならなかったそうだ。
小倉中学には配属将校が一人と、軍事訓練を担当する教練の久芳先生がいた。二人とも紳士で教練の時間も楽しかった。銃を持って運動場をほふく前進すると上着のひじとズボンのひざがぼろぼろになった。「敵から身を隠さなければならない!石田!お前は丸見えだ!戦死だ!」と言われても運動場には身を隠すものは何も無い。「石ころ一つでも、花一本でも身を隠すために利用するのだ!」と言うので、タンポポの後ろに隠れると「よし!だいぶ見えなくなった!」と言ってくれた。一人一人の姿勢をチェックした後で「突撃!」の号令がかかり、全員立ち上がって銃を構えて歓声を上げて前進した。整列して点呼をとると一人足りない。石田君が運動場の真ん中の花の後ろで銃を構えたまま寝込んでいたのである。前の晩の空襲で寝不足だったのだろう。
冬には銃剣道の寒稽古があった。日の出前の真っ暗な校庭の雪の上を銃を抱えて素足で何度も突撃訓練をするのである。やがて日が昇り白い息を吐きながら整列すると久芳先生が「池田徳三郎、一歩前へ!」と号令を掛けた。見ると、池田君一人だけが下駄を履いていた。池田君はずっと雪の上を下駄履きで突撃訓練をしていたのである。
銃器庫で銃の手入れをするのも楽しかった。頑丈な木造の、天井の高い銃器庫は鉄と油の匂いが充満していた。久芳先生の助手の下士官と、銃身の掃除をする鉄棒でピンポン玉を突いて玉突きの真似ごとをして遊んだ。私はラッパ手だったので、ラッパを磨き終わって手ぬぐいを詰めて音を殺してジャズっぽい即興曲を吹くと下士官は腰をくねらせて踊ってみせた。戦時中の学校生活は殺伐としたものだったと思うかも知れないが、案外、自由の風が吹いていた。
神社参拝の日に八坂神社の境内に集合していたら、空襲警報が鳴ったので防空壕に避難した。防空壕といっても八坂神社にあったものは、塹壕のようなものだったので中で寝そべって空を見ていたら、厚い雲の間から時々アメリカの爆撃機の姿が見えた。高度も高かったし、たった一機だけだったのでのんびり眺めていたが、後になってあの米軍機は原爆を積んで北九州を狙っていたが雲が厚かったので長崎へ回ったと聞いた。
毎晩の空襲には慣れっこになっていたが、終戦が近い頃には昼間も空襲警報が鳴った。空襲警報が鳴ると授業を中止して学校の大きな横穴式防空壕へ逃げ込んだ。迷路のような壕の通路にはロウソクが灯っていた。誰かが、撃墜された米軍機の防弾ガラスの破片を持っていて「これを擦るとキャラメルの匂いがするよ」と言って皆に匂いを嗅がせてくれたりして遊んだ。防空壕の中はふざけたり笑ったりで賑やかだった。
生物の時間に蛙の解剖をしていたら、空襲警報も鳴らないのに米軍機から宣伝ビラが降って来た。「読んだらだめだよ。憲兵隊に引き渡すのだから」と先生が言ったが拾って読んでいたら、先生も読んでいた。葉書より少し大きい紙に丸っこい字で印刷されたものだった。「日本良い国、花の国。六月,七月灰の国。八月、九月はよその国」と書いてあった。実はその通りになった。そのような宣伝ビラで戦意を喪失することはなかったが、戦況が不利になっていることは誰の目にも明らかで、大本営発表を聞いても「実は・・・」という噂が囁かれて、公式発表を鵜呑みにすることはなかった。
陸海軍組もとうとう軍役奉仕に出動して小倉製鋼で手りゅう弾を作った。五十メートルほど先に爆弾が落ちたこともあったが、不発弾だったので命拾いをした。昼休みになると飴湯の配給があった。大きな缶に入った飴湯を先生が保管していて毎日少しずつ配給された。甘い物の少ない頃で、手りゅう弾の火薬を舐める生徒もいた時代だから飴湯の配給は楽しみだった。その頃広島に「新型爆弾」が投下された。原子爆弾のことである。それまでは目立ち難い黒っぽい服を着せられていたが、その時から熱線が反射しやすい白いシャツを着るように言われた。しかし、小倉製鋼での手りゅう弾作りも十日間ほどで戦争は終わった。
終戦を迎えた日に全員学校に集合した。沈痛な面持ちの先生が敗戦の経緯を話し、一人ずつ感想を述べるように言った。私が何を言ったかは覚えていないが、ある生徒が「小倉製鋼に残して来た飴湯はどうなるのですか」と言った時の先生の悲しげな笑顔が忘れられない。
戦争に関係するものは全て占領軍に引き渡すために、銃器庫の銃の菊の紋章を削り、信号ラッパも紋章を削り取ってから潰した。後に私がアメリカに住んでいた時、フィラデルフィアの古道具屋の主人に、日本軍の軍刀や銃には同じ所に傷があるのだが何故なのかと尋ねられた。菊の紋章は天皇の紋章なので、それを辱めないために削り取ってから戦勝国に引き渡したのだと話すと「信じられない!」と言って驚いていた。
武道は全て禁止され、五人以上が集まることもご法度だった。体育の先生も「集まれ!」という号令をかけられないので、「集まりましょう!」と言わされた。剣道の先生は講習を受けてラグビーの先生に早代わりした。剣道場はバスケットボールのコートに変身して、米軍の兵士が教えに来た。イモ畑になっていた広い運動場は占領軍が接収してブルドーザーを使って忽ち野球場に変身した。しかし、米軍は一度も使わずに学校に返還されて、この野球場のお陰で小倉中学と後の小倉高校の野球部は全国大会に出ることになり、二連覇の偉業を成し遂げた。
おぼつかない日本語を話す日系の兵士や軍属がやって来てデモクラシーの話をしたのもこの頃である。全てが新しくなったのだが深刻な混乱はなかった。日本人は変わり身が早いのだろうか、根っからの「のんき者」なのだろうか、何もかも民主主義の一言で片付けられた。
戸畑から小倉へ通じる道を米軍の戦車隊が示威行進したことがあった。黒煙を上げてゆっくり走る鉄の塊のような巨大な戦車の横を完全武装の米兵が行進する姿を見て、日本軍の装備とは余りにも違うことに驚いて、沿道の人たちは「これじゃ、戦争に勝てるはずはないね」と呟いた。それから数週間後に肩に赤い矢のしるしをつけた「レッドアロウ」という部隊がやって来た。殆どが若い陽気な兵隊でジープの運転台から長い脚をボンネットに載せて走っていた。全くの丸腰だったことを考えると余程治安が良かったのだろう。その時初めてハーレーのオートバイを見た。神社の階段を無邪気にハーレーで上がって行く傍若無人な米兵を遠巻きにして苦々しく見ていた人たちは「負けたんだから仕方が無い」と言って諦めていた。日本人は諦めが早いと言われる。そうかも知れないが、潔さの美学を大切にする国民なのかも知れない。最近、柔道の試合を見ていると、投げたり投げられたりした後、直ぐに審判の方を見る選手が多い。相撲でも土俵に這いつくばったままで行司の軍配を見上げる仕草をよく見るが潔さがないように感じて見苦しく思う。際どい勝負で勝った力士が、勝ち名乗りを受けずに土俵から降りかかってから引き返す仕草は勝負にこだわらない潔さを表している一種の美学なのだろう。もっとも、最近の国際柔道の審判の誤審にはひどいものが多いから、思わず審判を見てしまうのも理解できる。
戦場に行かない者は、女子供まで「銃後の護り」のために竹やりでの訓練が強制された。二本の竿の間につるしたルーズメルトとチャーチルのお面に向かってバケツで水を掛ける訓練もあった。最近、このような子供じみた訓練を馬鹿にした論評をよく耳にするが、武力としての評価は低くても、国民の心を一つにし、戦意を高揚することには大いに役立ったと思う。戦時下の思想統制とはそういうものなのである。
北九州が最初に爆撃された時、間断なく発射される高射砲の音は凄まじかったが、敵機は一機も撃墜されなかった。二度目の爆撃の時からは複数の照空灯で機影を捉え、より正確に対空砲火を使うようになったので、北九州上空でも数機が撃墜されるのを見た。パラシュートで降下する米兵を照空灯が捕捉して落下地点を確認して憲兵隊員が捕獲した。捕虜になった米兵の所持品の中に、空からの救助が容易なように海を染めるための染料の入った袋や、小さくまとめた釣りの道具があることに驚いた。
私の家の近くに、屋根に大きくWPと書かれた捕虜収容所があった。殆どがオーストラリア兵で、寝転んだままでまずそうにお粥や雑炊を食べていた。
裏の畑から八百メートルほど離れたところに小さな鉄工所があり、間違えて不発弾を溶鉱炉に投げ込んで大爆発を起こしたことがあった。軍役奉仕に来ていた女子学生を含む社員が数名犠牲になり、手足がばらはらになった子供の足を胸に抱えて座り込んでいた母親の姿は忘れられない。戦争はどのような大義があっても、個々の国民にとっては余りにも悲惨なものである。しかし、「悲惨だから戦争はいけない」とひと括りにして結論を出すことも現実的ではない。