小倉高校時代

小倉中学の五年生の時、学制改革があり私たちは小倉高校二年生になった。その頃の名物先生の一人は国語担当の宮原先生だった。宮沢賢治が好きな先生で、今考えると随分深遠な授業内容だったと思う。まだ、大学受験準備の課外授業がない時代だったが、夏休みに図書館の二階で特別授業があり、宮原先生の「夢十夜」の講義を楽しく受けた。

まだ、教室に冷暖房設備の無い時代で、戦時中に、焼夷弾が天井で発火しないように教室の天井は全部はずしてあったので冬は寒かった。ある晴れた冬の日、陽の当たる窓際に立った宮原先生は「原子力を缶詰にして小さな小さな穴を開けて少しずつ熱を出せたら世界中の人が暖かくなるだろうにね」と言った。その頃、「イワンの馬鹿」というソ連のテクニカラー映画を観た。イワンが森の中で金色の木の葉を拾い上げるとその木の葉から出る赤や黄色の光が森中を満たす場面で私はなぜか宮原先生の言葉を思い出して心が温かくなったことを覚えている。

三年生になると男女共学のテストケースだったのだろうか、小倉西高校の女子生徒と小倉高校の男子生徒を十数名ずつ交換することになった。残念ながらこの試みは一年生にのみ適用されたのだが、学校に女子生徒が入って来ることは嬉しいことだった。掃除の時間に女子がバケツの水を運んでいると三年生の男子の中には「僕が持ちましょう」と言って手助けを申し出る者もいた。

その頃、私は一年生の女生徒と知り合った。「鈴の鳴るような声」とはこの人の声のことを言うのだと思う。母親の居ない彼女はよく私の家で食事をしたりしていた。夜、家まで送って行く途中、彼女は私に「空しく老いぬ」という歌を教えてくれた。

「日ごと磯に

 沖見るおみな

 波のかなたに

 何をか恋いぬ。

 

 待てど待てど

 帰らぬ吾が夫

 船か破れにし

 梶緒か絶えし。

 

 ああ、哀れや

 夫を待つおみな

 磯に年経て

 空しく老いぬ。」

 この時初めて私はデュエットの楽しさを習った。彼女とはよく手紙を交換した。「私は実はお姫様なの。部屋の白いカーテンを開けるとお城の天守閣が見えるの。時にはその向こうにお月様も見えます」というような手紙を貰うと私の心は現実から遊離した世界に飛んでいた。斉藤勇著「英詩概論」の緒言に「文学の鑑賞は現実の世界から遊離された想像の世界において経験される」とあるが、まさにそのような世界にどっぷり浸かった時代だった。後に私が留学している間、彼女は私の両親に暖かい下着を買ってくれたりして面倒を見てくれた。今でも数年に一度は彼女と電話で話す。あの鈴の音のような声は今も変わっていない。

 音楽に目覚めた私は時々音楽会に行った。到津の小倉西高校の講堂で「ボリス・ゴドノフ」というオペラが演じられた時の白系ロシア人ソプラノ歌手ケイ・スワの歌に魅せられた。なぜか涙が止まらなかった。ひとに泣き顔を見られたくなかったこともあって、私は泣きながら歩いて一山越えて帰宅した。直ぐに家という現実の中に戻りたくなくて日明小学校の運動場の滑り台の上で星空を見ながら時を過ごした。帰宅するといつもとは様子の違う私を兄姉たちは怪訝な顔で眺めたが、母は「音楽会はよかったみたいね。よかったわね」と言って手を握った。母は私の心の隅々まで分かってくれていると思うと安心した。良い母を持って私は幸せ者だと思った。

 ソプラノ歌手と言えば、最近アメリカの黒人歌手キャスリーン・バトルのコンサートに行った。彼女のコロラチュラはまさに天使の歌声である。暖かい人間愛がほとばしる人間性と合わせて胸に熱いものがこみ上げた。私の泣き癖はまだ治癒していないようだ。(蛇足だが、私はクラシックだけではなく竹内マリア、布施明、岩崎宏美、若い頃の弘田三枝子、ジェリー伊藤、ビン・クロスビー、ペリー・コモ、カーペンターズ、ボニー・タイラ等も好きな歌手であるから音楽の好き嫌いには全く節操がない)

 小倉中学には戦時中とはいえ比較的に自由な雰囲気があったが、その校風は小倉高校になっても変わらなかった。また、今の高校の授業にはないアカデミックな授業が多かった。九州文壇で活躍していた小峯先生の英語の授業は文学論の香りがした。シェークスピアに造詣の深い井出先生の授業は後に大学で英文学を学ぶ時の基礎を作ってくれた。ポオの「黒猫」やスチーブンソンの「自殺倶楽部」を読ませてくれた磯崎先生、複雑な幾何学を明解に説明してくれた日吉先生、実験を通して化学を面白く教えてくれた高橋先生、蛙からウサギまで解剖して動物の体の神秘を示してくれた高原先生、代数を辛抱強く教えてくれた古谷先生、図形の美しさを楽しませてくれた杉田先生。信じられない程多くの素敵な先生に恵まれた高校時代だった。(杉田先生の奥さんは俳人杉田久女である)

 当時の小倉高校の野球部は強豪チームだった。甲子園での二連覇の偉業の立役者は同じクラスの福島投手だった。高校野球をテレビで見ていると、負けたチームは判で押したように甲子園の土を袋に詰めて帰る。実はあの習慣の元祖は福島君である。優勝戦で負けた時、福島投手は黙ってマウンドの土を一握り掴んでポケットに入れて再起を誓ったのである。一握りのマウンドの土であることに意味があるが、持ち帰り用の土を袋に詰める球児の行為に私は美学を見出せない。

 話が後先になるが、小倉高校の前身の小倉中学の波田野校長は脳溢血で倒れた時、「御国のために働けなくなった」という理由で自害されたと聞いたことがある。明治天皇が崩御された時、後追い自害した乃木希輔を信奉されていた波多野校長の生き様、死に様には美学が見える。乃木将軍が師団長だった第十四師団の通用門が小倉中学の、板櫃川沿いの裏門として移設されている。数年前に乃木門を見に行ったが、事務室の人たちも誰ひとりとしてその存在すら知らなかった。

 施設がより機能的になり美しくなることは望ましいことだが、その代償であるかのように古いものが捨て去られ、忘れ去られることは寂しくも、悲しいいことである。