リンカーン大学(1)
リンカーン大学は黒人の教育を目的に、奴隷解放令施行の八年前の1854年に長老派の牧師が私財で設立した私立大学である。微生物学者として名高いマーシャル博士、ナイジェリアの巨星アジキウエ、ガーナの初代大統領ンクルマ、詩人ラングストン・ヒューズ等の多くの著名人を輩出している。現在は学生数2千人の州立大学だが、私が留学した頃は大学生350人、大学院生12人の小さな私学だった。 正門のすぐ右に木造の事務棟があった。ボストンバッグを抱えて網戸の前に立つと、事務棟から出て来た学生が長い脚でドアを押さえて私を中に入れてくれた。受付の上品な女性は私を見ると「トシオでしょ。お待ちしていましたよ」と言って学生部長の部屋に案内してくれた。小柄だが肩幅の広い初老の学生部長は私のカバンを片手に持ち、もう一方の手を私の肩に回して向いのゲスト・ハウスに連れて行ってくれた。九月に新学年が始まって寮が開くまでそこに泊まることになっていたのだ。ハウスの世話をするウォール夫人が二階の私の部屋の使い方を説明してくれた。だだっ広い部屋に時代物の浴槽とベッドと机が置いてあるだけの簡素な部屋だったが夏休みの仮住まいとしては十分だった。
学生部長から連絡を受けて神学部長のムレイ博士が来て、学寮の食堂が開くまで自分の家やキャンパスに住む家族持ちの学生の家で食事をするように手配してあることを告げ、スケジュールを渡してくれた。ムレイ博士は教会史の著名な教授で、奥さんと一人娘と三人でキャンパス内の住宅に住んでいた。穏やかな紳士で食事に招いていただいたりして大変お世話になった。食堂の栄養士レヌウィックさんにも気に入って戴き、時折、すき焼きまがいのものをご馳走になった。彼女の夫は学生からドックと呼ばれる理容師で、食堂の地下室に学生相手の理容室を構えていた。二、三度散髪を頼んだが、自分は高い椅子に腰掛けて客の椅子を蹴って回転させながら一人あたり15分ほどで散髪した。
リンカーン大学の食堂の栄養士
レンウィックさん![]()
リンカーン大学のガーナの留学生と一緒に
久々に風呂に入ってしばらくうとうとしていると私に会いたいという客人が階下に来ているというので下りて行くと、顔中髭だらけの大柄な黒人が二人待っていた。一人は神学大学院の学生のテーバー氏で、もう一人は大学生のウォーデン氏だった。ウォーデン氏は兵役を終えて大学に再入学した人で、終戦直後に日本に進駐した経験の持ち主で日本語が驚くほど堪能だった。米軍専用列車で鹿児島を出発して東京に着くまでに、平仮名とローマ字で書かれている駅名を見ながら平仮名をマスターした秀才だった。テーバー氏はデトロイトで賭博に明け暮れする生活を送っていたが、一念発起して牧師になる決心をして神学部に入学したのだった。リンカーン大学在学中、この二人には随分力になってもらった。九月に新学年が始まり神学部の教室やチャペルがあるヒューストン・ホールに入寮した。右隣が図書館で左隣が食堂で、ギリシャ語以外の授業は全てこの建物の一階で行われたので便利だった。最初の半年は週に4時間しか受講を許可されなかったが、受講の準備として何冊もの本を読むことを義務づけられていたので、毎晩夜中まで勉強しなければならなかった。組織神学、教会史、説教学、教育学、心理学、教区運営学、犯罪学、ギリシャ語、ヘブライ語が主な科目で、百パーセント読み書きと討論の授業なので留学生にとっては厳しいものがあったが充実していた。
私の寮の部屋は二人部屋だったが、リビング・ルームを挟んで書斎兼寝室があったので個室同然だった。毎朝、食堂からスクランブル・エッグのいい匂いが漂って来る。食堂の一階は大学生の食堂で、私たちはウエイターつきの二階の食堂で独身教職員と一緒に食事をした。朝は決まってシリアルとベーコンつきのスクランブル・エッグだったが、好みによってはパンも食べられた。飲み物も食べ物も無制限だった。食堂の職員は栄養士のレンウイック夫人とコックのトムだけで、あとは全員学生がアルバイトで働いていた。レンウイックさんはスペイン系の色白の大柄な黒人で趣味で絵を描いていたが腕前はプロ級だった。日本の芸術にも造詣が深く、よく食堂の二階の自宅に招かれてお茶をよばれた。日本人はみな芸術家だと思い込んでいるレンウイック夫人に日本の美術について質問されると答えに窮することが多かった。図書館が夜11時に閉館してからキャンティーンに行くのが楽しみだった。そこには玉突き台とジュークボックスと軽食を出すカウンターがあった。私の大好物はチョウチョウという、チョコレートでコーティングしてあるアイスクリームだった。店番は小柄なワトソンさんで「チョウチョウ」は日本語で蝶のことだと教えたら、私の顔を見るといつも「バタフライ?」と言って愛嬌のある大きな目でウインクした
大学の周囲にはガソリンスタンドが一つと、私書箱に郵便物を取りに行かなければならない郵便局と、小さな教会と怪しげな食べ物屋と十五軒ほどの住宅があるだけで、いちばん近いオックスフォードの町までは三マイルあるので、車を持たない学生は殆どの時間を学内で過ごした。男子の黒人大学だが白人学生も数人いたし、女子学生も二、三人いた。レンウイックさんは私に黒人のスラングを教えるのが楽しいらしく「トシオ、ジャングル・バニー(醜い女の子)には注意するんだよ」とか、「都会に行ったらドント・ピック・ア・ウドゥンニクル(騙されないように注意しなさい)」といった調子で話しかけてきた。学生の三分の一は留学生でその殆どはアフリカからの学生だった。親しくなった留学生はハンガリーのベラ・ネメシ、ドイツのハンツ・ホーランド、韓国からの呉さんだった。呉さん(韓国語読みではオーという)はテーグーの教会の五十歳代の牧師で、若い頃に同志社大学の神学部で学んだ人で、日本人のことを「日本のかた」と呼んだ。日本では住み込みで新聞配達のアルバイトをしながら苦学したそうだ。そこで家族同然の扱いを受け、仕事をしているのだからという理由でお風呂に入るのはいつも主人の次だったと語った。当時の日本を知る者ならば呉さんは破格の扱いを受けていたことが分かる。呉さんも立派な人だったが、店の主人も優れた人だったに違いない。呉さんは集金まで任されるほど主人に信用されていたことを誇りに思っていた。集金に行くと「ご苦労さん」と言ってよくおひねりを貰ったそうだ。呉さんは日本語の「ご苦労さま」の的確な韓国語の訳語は無いと話してくれた。そういえば、後に出会った日系二世の牧師が日本語の「責任」の正確な英語訳は無いとも言っていた。言語はそれを話す社会の思考構造・風習等の産物なのだからこのようなことは何語にもあてはまることで、日本語だけが突出してユニークだと考えることは危険である。日本語は語彙が豊かだから習熟することが難しいと言う日本人に何度も出会ったが、世界中に易しい言語など皆無である。「ぶり はまち、元はいなだの出世魚」という川柳があるが、魚への依存率の高い日本人は同じ魚を大きさによって別名で呼ぶ。しかし、歴史の短い肉に関しては、牛肉、豚肉、羊肉という風に語彙が極端に少ない。一方、長い間肉を食べてきた英語圏では肉に関してはビーフ、ポーク、マトンというように語彙が多い。家族制度のある日本社会には兄、弟、姉、妹のように家族構成人を年齢で分類する呼称があるが、日本のような家族制度のない英語圏にそのような区別がないのは必要性がないからである。 「マレー語は易しいというが、市場で買い物をする程度のマレー語なら数週間もあればマスター出来るが、そこに住む人の心理を理解できるほど習熟しようとすると一生かかってもマスター出来ない」というある外国人の書いたエッセイを読んだことがある。やはり、日本語が特に難しいとか、ユニークだという考えは正しくない。
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