ドアの無いトイレで用を足しながら目の前で髭を剃っている学生と話をするアメリカ式トイレ使用様式に慣れていない留学生は当惑するようだが、私は日本にいる頃から米軍基地で働いていたので一向に困らなかった。トリニダッド島からの留学生は脱いだ衣服を丁寧に入り口に掛けて目隠しを作り、トイレット・ペーパーをきちんとたたんで便座に並べて用を足していた。アフリカの学生は部屋からシーツを持って来て入り口に押しピンでとめてトイレを使っていた。通常、アメリカの学生は他人のすることには無頓着だが、なかにはシーツから首を突っ込んで「アーユーオーライ」と訊いていた。何事にも屈託のない素直なアメリカ人気質が見えておかしかった。
ヒューストン・ホールから郵便局へ通じる並木道をよく散歩した。冬の夜、村の人家のキチンの、湯気ですりガラス状になった窓越しに家族団らんの様子が見える時、ふとホームシックになることもあった。足元の湿気の少ない雪を掴んで木に投げつけたら木に届く前に粉々になったのでもっと淋しくなった。
郵便局の前のウォール家にはジョアン、イレイン、マリーの三人娘がいた。同級生の、今風に言えば「超フレンドリー」なアンダーソン・ポーターが三人娘と仲が良かったので時々一緒に行って手作りのケーキとコーヒーをご馳走になった。ジョアンは近郊のチェイニー大学教育学部の学生で、イレインはオックスフォード高校を出てリンカーン大学の事務室で働いていた。マリーは村一番の美人で高校生だった。イレインはタイプが下手で仕事がさばけないので、郵便局に大学宛の手紙を取りに行って大学教員の家に届けるという私のアルバイトとの交換条件で私がタイピングを引き受けた。日本の大学時代にグラブス師から習ったタイピングの技が役立った。
ある日、アンダーソンと一緒にウォール家でお茶をいただいていた時、母親がジャムの瓶を持って来て「ミスター・ミネ。イレインは家庭的でいい子なのですよ。料理も上手だし、このジャムもイレインが作ったのですよ」と自慢した。後で、アンダーソンが「ウォール夫人はイレインをお前にもらって欲しいみたいだよ」と言った。そう言えば、大学の映画会の後でイレインと話していると母親たちはさっさと帰ってしまうのでイレインを家まで送らなければならないこともあった。家の前でお休みなさいを言ってイレインが家に入るのを見届けるのだが、そのようなことが数回続いた時、ドアの前で振り返ったイレインが「あなたは一度も私にお休みなさいのキスをしたことがないわ。私が嫌いなの?」と言った。日本ではそんな時にキスをしないのだと説明する昭和一桁代生まれの私のギゴチない説明は多分説明になっていなかったと思う。雪の深い夜、イレインが熱いコーヒーを魔法瓶に入れて学寮まで持って来てくれたこともあった。私はイレインと少し距離をおくことにした。
アンダーソンは弁舌爽やかな、ちょっと軽薄なところのある青年だったが、気さくな性格と話が面白いところが受けて男性にも女性にも人気があった。ある晩遅くアンダーソンが私の部屋にやって来た。普段とは様子が違うので尋ねてみると、ダンスパーティーで凄く魅力的なキャロルという女性に会いすっかり魂を抜かれた様子だった。後日紹介されたが、それ程美人ではなかった。色は黒いほうで肉付きがよい、中背の女性だったが胸は並外れて大きかった。結局、アンダーソンは彼女と結婚して大学から車で三十分ほどのコーツビルに住んだ。キャロルは料理が上手でよく招かれてご馳走になった。特にキャロルの作るアップル・パイの味は格別だった。結婚後もアンダーソンはウォール家に出入りしていたこともあり独占欲の強いキャロルとは何度もごたごたがあった。それに、時間にルーズはアンダーソンの帰宅があてにならない時には私が代役でキャロルと一緒にパーティーに出かけなければならないことがよくあった。その頃は在米日本人の数が少なくて、特に黒人社会では私の存在は希少価値があったようでパーティーでは歓迎された。ダンスの苦手な私にキャロルは熱心に踊り方を教えてくれたが余り上達しなかった。酔っ払ったキャロルの愚痴を聞いたり慰めたりで一晩過ごすのは大変だったが淋しそうなキャロルをほったらかすことも出来ないし、それに美味しいものが食べられて、色々な階層の人と知り合いになれたことは得がたい経験だった。今になってはいい思い出である。
テキサス出身のリメル・カーターは二メートル近い大男だったが全てにおっとりしていてギリシャ語のシュバルツ教授から「馬鹿になる薬でも飲んだのか」とまで言われるほど理解が遅かった。ギリシャ語の授業の後、私の部屋で夜遅くまで復習をするのが日課だった。ギリシャ語の読み方はローマ字の読み方と全く同じなので、基礎的な規則を習得すると簡単だった。文法もドイツ語と似ていて変化を覚えてしまうと英語よりも正確に理解できるのだが、外国語を余り学んだことのないアメリカ人にとっては難解のようである。山口のグラブス師に新約聖書のギリシャ語の基礎を習っていたことがここでも役に立った。
シュバルツ教授は小柄なユダヤ系のアメリカ人で、その厳しい授業には定評があったが、ギリシャ語をすらすら読む私には優しくて、著者のサイン入りのギリシャ語辞典を頂戴した。
ある日、リメル・カーターが、教室全体が凍りつくほどのひどい言葉で叱責された時、リメルは笑顔で「アイ・ラブ・ユー・ドクター・シュバルツ」と言った。教授が「私は今愛するだの愛さないなどの話をしているのではない。君の鈍重さにあきれているのだ」と言い放った。リメルは相変わらずの笑顔で「バット・アイ・ラブ・ユー・ドクター・シュバルツ」と応えた。私は今でもあの時のリメルの笑顔を鮮明に覚えている。私はリメルの生き方には必ずしも賛成しかねるのだが、どのような状況でも人を非難せず、自分の信じる「愛」を実践するリメルの信仰の深さと勇気には心を打たれた。
白人のポール・ゴードンは秀才で几帳面で真面目な青年だった。大学から三十キロほど東のアボンデールに小学校の先生をしている奥さんと幼稚園に通う娘と三人で住み、町の教会の牧師をしていた。時々彼の家庭で夕食をご馳走になった。清潔な平均的な白人家庭を知るには良い機会だった。当時でも、公立学校に個人的な宗教色を持ちこむことに反対する意見があったが、ポールの奥さんは授業の始まる前に必ずお祈りをしていた。そのことが良いことなのか悪いことなのかは別にして、文部省や教育委員会やPTAの意見を気にする余りに自分の信念を貫くことの出来ない日本の学校教師は、彼女の強さと情熱を少しは見習ってもいいのではないだろうかと思う。
リンカーン大学に到着した時に会いに来てくれたテーバー氏はケネットスクエアーの近くのクエーカーの集会所に日本人が十数人来ていると聞いて私を連れて行ってくれてたことがあった。その昔、内村鑑三や新渡戸稲造がフィラデルフィア近郊のクエーカーの集会所に通っていたことがあったと聞くが、もしかするとここがその集会所だったのかも知れない。因みに、戦後、天皇家の家庭教師をしたヴァイニング婦人もフィラデルフィア出身で、郊外の住宅地に住んでいた。
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