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日本からの留学生が少ない時代だったので、久しぶりに若い日本人に出会って話が弾んだ。後にテーバー氏は私たちが自己紹介する時に体の前で人差し指を小刻みに振るのはなぜかと尋ねた。咄嗟には思い浮かばなかったが、よく考えてみると、「三根です。数字の三と大根の根です」と言うと相手も「津留です。三ずいの津に留守のルを書いたツルです」と言いながら、確かに人差し指で空中に漢字を書くので日本語を知らない外国人には奇妙に思えたに違いない。
夜の十一時頃に集会所を出発して、真っ暗な国道一号線を走り始めて間もなく車に小さな衝撃を感じた。テーバー氏が車を停めて周囲を点検すると犯人は野兎だった。野兎をはねたのである。よく太った兎の耳を掴んで「神様、有難うございます。これで、明日は久しぶりに家族に肉を食べさせることが出来ます。有難うございます」とお祈りしてトランクに死んだ兎を放り込んで帰途についた。この人たちの逞しく、素朴な信仰心に触れて、開拓時代のアメリカ人の逞しさの一面を見た気がした。
テーバー氏と一緒にゲストハウスに会いに来てくれたウォーデン氏は夏休みにブルックリンの自宅に招いてくれて家族と一緒にコニー・アイランドに行ったことがあった。ホット・ドッグの発祥地としても知られるこの海水浴場は余り立派な設備はないが、ニューヨークに住む低所得者には手軽な遊び場で、安い食べ物屋やバーがあり、多くの若い黒人で賑わっていた。
ボブ・デュランはアパオクトララの教会の牧師だった。彼は大学時代はフットボールの選手で白人で吃音があった。結婚していて娘が二人いたが、女性はスカートをはいて家事をするのが務めだという古い考えに凝り固まった頑固者だった。夜鉄工所で働いて家庭を支えていたので、授業の空き時間を利用して私の部屋で仮眠をとっていた。デュランがフランス系の名前だと言うと父はドイツ系だと強く主張した。アメリカ社会ではフランス系は軟弱でドイツ系は理性的で剛健であるという印象が定着しているようだ。どこの国にも同様の風潮があるがアメリカ社会も例外ではない。黒人は音楽の才能に長けていて、日本人は指先が器用だと信じている人が多い。軟弱なドイツ人や、合理主義的なフランス人や、音痴でリズム感の悪い黒人や、私のような不器用な日本人がいることを忘れて欲しくないのに。
1920年代にリンカーン大学で学んだ黒人詩人ラングストン・ヒューズが詩集「黒の悲劇」で同じことを書いている。「惨めなのは、黒人はみんな歌が上手だと先生が言った時。でも、僕は音痴なのに・・・」
リンカーン大学では特徴のある変人によく会った。月は実在せず、人間の思考の想像物であると主張する人や、蝿は人間の血を吸うから殺さなければならないと言って、蝿叩きを持って血眼になって蝿を追い回す人がいた。不幸なことにペンシルバニア州は牧畜が盛んで、授業中も蝿に悩まされるほどなので、彼の蝿退治作戦はエンドレスな戦いだった。それにしても、アメリカの蝿は動きが遅く、宮本武蔵のように箸で捕まえることは出来ないが、狙いを定めて手づかみで捕まえることは出来る。ある家庭に招かれた時、子供が近所の友人たちを連れて来て私が蝿を手で捕まえるのを見て「ニンジャ、ニンジャ」と叫んでいた。
リメル・カーターがクリスマス休暇で帰省する時、数人の学生と一緒に、リメルの運転する古いデソトに同乗してテキサスに行った。金曜日の午後に出発して給油と食事以外はノンストップで走ってテキサスに着いたのは日曜日の朝だった。途中でノースカロライナのガソリン・ステーションに寄った時、私がトイレを使おうとしたら、はじめは白人用のトイレを使わせようとしたオーナーは車の中のリメルたちを見て「ディス・ウエー」と言って黒人用トイレを指さした。ガソリン・スタンドを出てからリメルたちは「トシオも俺たちと同じ黒人扱いされた」と大笑いした。
テキサスのブモントにあるリメルの実家は砂地に建った高床式の家だった。日本人はおろか、黒人以外が泊まったことがないので遠くから親戚が集まり私はすっかり見世物になってしまった。疲れているだろうと言って簡易ベッドを暖炉のそばに持って来て寝かせてくれたが、家中の人がベッドの周囲に集まって来て話すので、結局皆が寝るまで眠れなかった。リメルのお姉さんは「トシオは疲れているから静かにしてあげよう」と言って首や脚を撫でてくれたが、そのうちに自分も疲れて私のベッドに入って来て私より先に眠り込んでしまった。とにかく、皆お人好しで親切で純朴だった。 翌日、事態はもっとひどいことになった。私の黒くてちじれていない毛髪に興味を持った近所の子供たちが寄ってたかって私の髪を編んで黒人の女の子のような頭にしてしまった。
ブモントの町でマーロン・ブランド主演の「さよなら」という映画を観た。日本に駐屯した米兵と日本人女性との悲劇である。人種差別の強い南部で人種問題をテーマにした映画がどのように受け止められているかは興味があった。近所のバス停で下町行きのバスを確認しようとしてそこに居た黒人女性に尋ねたら彼女は跳び上がって驚いた。しかし、私がリメルの家に泊まっていると知ると、自分も下町に行くから私の降りるところで下りればいいと言ってくれた。しかし、バスに乗ると一緒に座らずに私の後ろの黒人席に座った。当時のアメリカ南部では黒人と白人は並んでバスの席に座ることは出来なかったのである。下町の繁華街に着くと彼女が映画館まで一緒に歩いてくれたが、交差点まで来ると交通整理をしていた警官が笛を吹いて私たちに来るように合図した。南部では人種間の問題でいざこざが起ることを聞いていたので「厄介なことにならねばいいが」と思いながら恐る恐る警官に近づくと「コンニチワ。オゲンキデスカ」と日本語で言って、終戦後日本に駐留していたと話してくれた。
映画館では白人と黒人の入り口が二つあり、黒人は建物の後から二階席に上がるようになっていた。南北戦争後に奴隷解放令が発布された後でも南部にはジムクローという差別法が存在していたということは聞いていたが、ひどいものだと実感した。私が黒人の入り口から入ろうとすると掃除係りの黒人女性が黙って白人の入り口を指差した。私が手の甲を見せて「私は白人ではないよ。有色人種だよ」というと「ノー・サー。ユー・ホワイト・サー」と言って笑った。
帰宅して、その日の体験を家族に話すと、どちらに迷惑がかかってもいけないから、南部では黒人の女の子と一緒に歩かないほうがいいと話してくれた。近所の白人教会が黒人を礼拝に出席させたという理由で一週間前に爆破されたそうだ。
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