小学校時代
昭和十三年に私は小倉市立日明国民学校へ入学した。入学の前に新入学生の親の一人が学校へ行き「うちの子供は三根さんとは別の組に入れて下さい」と申し出たそうだ。これは私がいかに乱暴者で通っていたかを物語っているようだが、後にそこの家の子とは仲良しになって毎日のように一緒に遊んだ。
小学校での最大の悩みは言葉のハンディだった。ラジオを持っている家庭の少ない時代なので、殆どの先生や級友は私の東京弁を奇異に感じたようだ。母は東京弁にこだわりを持っていたので、私は学校では田舎弁を喋り、家に帰ると東京弁を話すことを余儀なくされた。しかし、寺崎一郎君だけは私の味方だった。寺崎君も東京出身で同じ悩みを持っていたので、二人だけになると思いっきり東京弁で話した。それに、田舎の子供は長ズボンを履いているが、私と寺崎君だけは東京風の半ズボンに黒のストッキングと黒い革靴といういでたちだったことも人々の目には奇異に映ったようだ。最近、一年生の時の集合写真を見つけたが、五十人ほどの生徒の中で私だけが「おかっぱ頭」だった。後に、母に連れられて床屋に行き、他の生徒と同じように丸坊主になったが、切った髪を包んでもらってしばらくは大事にしていたことを覚えている。
一年の受け持ちの先生は妊娠中の先生でよくヒスを起こした。ある日の放課後の掃除時間に机の端を持って「そっちをかきなさい!」と言った先生の言葉が分からず、ボーッとしていたら「かきなさい!」と言って頬を打たれた。親にも叩かれたことのない私はその先生を恨んだ。家に帰って、濡れ縁の板の上にチョークでその先生の姿を描き「先生なんて死んじまえ!」と叫びながら五寸釘で何度も刺した。数週間後、先生は産後の肥立ちが悪くて死亡した。「そんな呪いみたいなことは冗談でもやったらいけないよ」と母に厳しく叱られた。
その後、担任は袴をはいて紫色のリボンを髪に結んだ細面の女の先生に代わった。白や黄色や赤のチョークを後ろに隠して「今度は全部で何本でしょう?」と尋ねる先生の笑顔を今でも覚えている。それが私の初恋だったのかも知れない。
私の家と学校の正門の間には家が三軒しかなかった。だから、毎朝、多くの生徒が私の家の前を通学していたが、かわいい朝鮮人の女の子と毎朝顔を合わすのが楽しみだった。当時、多くの朝鮮人が徴用されて日本で働いていたので恐らくそのような家庭の子女だったのかも知れない。上品な細面で長い髪にリボンを結んでいた。その頃、朝鮮人は母国語を話すことを禁じられていたのだが彼女は私に会うとにっこり笑って「アンニョンハセヨ」と小声で言った。私が「アンニョンハセヨ」と言うと振り向いて笑顔を見せた。それから一年ほどの間、その子が転居するまでこれが私の日課になった。名前も素性も知らないが、今でも彼女の笑顔を思い出すと、時たま感ずる心の中の空洞に暖かいものが満ちてくる感じがする。
二年の時の担任は時枝先生だった。ピアノが上手で色々な歌を習った。「大きな波は、どんと来てどんと来てへさきに当たる。小さな波はちゃっぷ来てちゃっぷ来て船ばた叩く。空は晴れたし天気はいいし、嬉しいなうれしいな、水兵さん、軍艦旗・・」「お山にゃ若葉、若葉の下で目白の押しっくら・・」戦雲が垂れ込め始めた頃だったが、まだ生活にはゆとりがあった。冬には教室のストーブの上に弁当箱を並べて置いて暖めて食べたり、放課後校庭で落ち葉を焼いて、ついでに焼き芋を作って食べたりした。時枝先生には私と同い年の男の子がいたが、その子の服を新調する時に、私にも同じものを買って貰ったことがある。(実はその子が小倉中学で同期だった時枝君である)
その頃は学年の途中でも、朝鮮半島から転入して来る生徒が多かった。高山君も朝鮮出身の同級生だった。右手の親指の横に、もう一本小さな親指があるので、悪童が「六本指」と言ってからかった。高山君がいじめられると私はいつも彼を庇って悪童を追っ払った。何が原因だったのかは分からないが彼は四年生にもならない頃に突然死んでしまった。級友の中で私だけが葬式に参列した。祭壇の上の湯呑み茶碗に茹でた蛸が逆さに入れてあったことと家族が「アイゴー」と泣いていたことだけを覚えている。簡素で、悲しい葬式だった。私は不思議と高山君の顔を今でもはっきり覚えている。