四年生の担任は原口義行先生だった。師範学校を出たばかりの丸坊主の若い先生で、絵が上手だった。大きな紙をテーブルの上に広げて下書きもせずに一気に青鬼の顔を絵の具で描きあげて「絵は力だから、途中で筆を止めてはだめだ」と教えた。ある日私たちが廊下で騒いだという理由で、校長の親戚にあたる若い先生がクラス全員を廊下に並べてひどい体罰を加えた。翌日、そのことが原因で原口先生とその先生は口論になり、原口先生はその先生に殴られた。その話を聞いて数人で職員室へ行き、私たちのためにそのような羽目になったことを詫びた。級友の一人が「先生は大きくて強いのになぜ殴り返さなかったのですか?」と泣きながら言うと、机の上の割れたメガネを仕舞いながら「本当の勇気は一生に一度だけ出せばいいんだよ。勇気と蛮勇は違うんだ」と言っていつものように明るく笑った。みんな泣きながら笑った。(実は、この生徒殴打事件は私の父や他の父兄が事件として取り上げるように警察に申し出て、刑事事件としては取り上げられなかったが、当該教師は警察から忠告を受けた。戦時中は学校内でも暴力が当然だったように勘違いしている人が多いので付記しておく)

 私の家は学校の直ぐ裏にあったので、原口先生が宿直の晩は宿直室によく泊まりに行った。早朝に日明の海岸まで歩いて行き、浜辺を歩きながら歴史のこと、日本の将来のことを話してくれた。(当時は、鹿児島本線は日明の海岸の波打ち際を走っていた)はしゃぎ過ぎてズボンをずぶ濡れにして帰宅すると母が「まあまあ、二人ともずぶ濡れになって、仕様がないわね」と言ってズボンにアイロンを掛けてくれた。

 ある日、先生が黒板に「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ、ただ一灯を頼め」と書いて「意味を考えろ」と言った。一時間ほどの黙想の後、意味を尋ねられたが誰も答えられなかった。私は「暗夜とは世の中のことだと思います。堅い信念を持たずに生きると不安だけれど、信念を持って生きれば不安は無い。つまり、信念を持てという教えだと思います」というようなことを言った。先生はしばらく黙っていたが、「よし」と一言残してクラスは解散した。今になって考えても、なぜあの時あのようなことが答えられたのかは分からないが、その時のひらめきの感触は覚えている。その後数週間、二人の級友、江頭君と鶴丸君と一緒に毎日放課後に原口先生から西郷南洲遺訓の講義を受けた。

 原口先生とはよく兄弟のようにじゃれ合って遊んだ。ある時はしゃぎ過ぎて先生の頭を軽く叩いた。先生は私を正面に座らせて「どんなに親しくても目上の人の頭を叩くことは良くないことだよ。人間社会には礼節というものがある。お父様、お母様にも礼節をもって接することが大切なんだよ」と諭してくれた。悲しくなって涙が出た。先生は「分かってくれたらいいんだよ」と言って強く抱きしめてくれた。今、振り返ってみると、二十歳そこそこの先生をそこまで深く踏み込んで教えることが出来るほどに成熟させたものは何だったのだろうかと考えさせられる。それは戦争という、生死の瀬戸際に生かされていたということのなせる業だったのかも知れない。

 その頃団体訓練がしばしば実施された。軍歌に合わせて全校生徒が校庭を歩く訓練なのだが、曲が速いのでチョコチョコ歩きをしないと歩調が揃わない。私がこの訓練を大の苦手にしていることを原口先生は知っていて、何か用事を見つけては私を団体訓練から外してくれた。団体訓練の指導者は男女組の担任で、パンチの効いた大きな声が自慢で、訓練は延々と続いた。その先生から見ると、当然、私は苦々しい存在だったに違いない。原口先生が徴兵前の事務で欠勤するとこの先生のクラスとの合同授業が組まれることがあった。先生が点呼をとる時に私が「はい」と応えると「この組には若年寄りが一人いるね」と嫌味を言った。当世流に言えば教師による「いじめ」だったのだろうが私はいじめられているということに気付かないくらい気にしていなかった。もっとも、私は詩吟を習っていたからなのか、早く声変わりをしていて声が低かったのだが、子供っぽさの無い私が憎かったことは明白だった。

 読書の好きな私が家にある子供向けの本を全部読んでしまって、父の文庫からダンテの「神曲」を持って来て読んでいるのを見た若い女の先生が「三根君、子供の本を読まなければだめよ」と言って「のらくろ三銃士」や「窓の雪夫さん」のような本を沢山くれた。その中で一番気に入ったのは中国大陸を横断する冒険物語だった。半世紀以上も昔のことだから物語が混乱していると思うが、砂漠で象を殺してその肉を食べるところを胸をときめかして読んだ。今でも大きな肉の塊を焚き火であぶって食べるのは私の夢である。

 学校のラッパ手だった私は口で吹いて音の出るものには異常な興味を持っていた。女学校の時に鼓笛隊に入っていた若い女先生に銀笛を貰ってからは昼も夜も銀笛を吹いて家中の者を悩ませた。

 「からたちの花」という歌の中に「みんなみんな優しかったよ」というくだりがあるが、そこを歌うと優しくしてくれた人たちのことを思いだす。本当に「みんなみんな優しかった」。

 思い出とは雲の上に頂を出している連山のようなものである。幾つかの頂だけが輝いているが、その下にある豊かな思い出があるから頂は輝いている。

 時枝先生の時とは違って、四年生になると戦争が激しくなってきて、原口先生のクラスでは「どこまで続くぬかるみぞ・・・」「四百余州をこぞる、十万余騎の敵」のような歌を先生が竹棒で教卓を叩く音に合わせて歌った。殆どが勇ましい歌だったが、中には物悲しいものもあった。どれもうろ覚えで途中からしか歌詞を覚えていないものもあるが「・・・アオよ泣け泣け、おいらも泣くぞ、万歳万歳勝ち戦」とか「高粱枯れて、カラス鳴く」は軍歌とは思えないような叙情的なもので、あの激しい戦争の最中になぜこのような軍歌が生まれたのかが不思議である。「兄は東に、妹は西に。父は戦に駆り出され・・・」は戦火に追われた中国人の悲しさを詠ったものだが、これらの題名や歌詞を持っている人がいれば教えてもらいたいものである。

 戦争も激しさを増し、原口先生は出征した。広島から南方へ向かった先生から検閲済の印のある葉書が届いたのは私が六年生の時だった。

 「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂るなかれ唯一灯を頼め。三根よ元気か。お前はかしこい子だ。先生の気持がわかるだろう。暗夜は色んな形で来る。恐ろしかったり苦しかったりするのは一灯無き証拠だ。いいか、一灯!一灯!忙しい軍務の暇に色々考へる。英雄忙中閑有りとか言ふ。むづかしかったら字引を引いて考へろ。此所は海が見えない。日明の海岸で遠い昔の事を考へたり、明日の日本を思ったりしたことを思ひ出す。しっかり勉強しろよ。先生もやる。大いに。お母様に宜敷く御伝へして呉れ。さようなら。」

先生はガダルカナル島で戦死なさったので、これが最後の便りになった。この葉書は私の宝物だから、現物も保管してあるが、スキャナーでパソコンに取り入れて大切にしている。

 私には十才年上の姉がいる。長女の明子である。仕事から帰って来ると夕食前に必ず琴の練習をしていた。時々、家の前のハゼの木の下で原口先生が姉の琴の音に聴き入っていた。今考えてみると先生は姉に興味があったのかも知れない。そうだとしても、当時の若者には直接会って気持ちを打ち明けることは容易なことではなかった。姉の奏でる「千鳥」をどのような気持ちで先生が聴いていたのかを想像すると、昔の若者の純な心が一幅の聖画のように私の心のスクリーンに浮かんでくる。あの頃の人の命は花火のように短く、しかし華やかだったように思える。