五年生の時の担任は厚いメガネを掛けた風変わりな男の先生だった。夜遅くまで何かの資格試験のための勉強をしていたらしく、授業中は生徒に課題を与えて私に監督と指導を任せて自分は眠っていた。お陰で私は授業内容の予習が大変だった。家庭訪問も私と一緒に回り、私の意見を聞いて報告書を書いていた。

 学校一の美人で通っていた竹本先生は私とは遠縁になるのだが、袴姿は清楚で人目を惹いた。ある午後、先生と二人で教室で報告書を書いていた時、竹本先生が運動場を横切って歩いて行くのを見た先生が「あの先生を君はどう思うか?」と尋ねた。「綺麗だと思いますよ」と言うと、「やっぱりそうか」と言った。五年生の生徒と教師との会話にしては馬鹿げていると思った。

 当時、級長は選挙ではなく担任が任命していた。一年から六年まで私はずっと級長を勤めたが、六年の二学期に初めて副級長のバッジを渡された。いつも同じ生徒が級長になるのはよくないというのが理由だったが、本当の理由は分からない。私は副級長の記章を持って校長室へ行き「こんなみっともないものは付けられませんから返します」と言った。母が学校へ呼び出されて説明を受けたが私は頑として聞き入れず、とうとう二学期は級長を二人おくことでケリがついた。私の頑固さはこの頃に既に芽生えていたのだから可なり年季が入っている。ずっと後になっての話だが、水産大学校を辞めて宇部短大に赴任した時「先生には来年度に教授になって戴きます」と学長から言われたが、私の業績も実績も見ないで天から降ったように教授に任命されることが納得できず、結局教授昇格の証書を受け取りに行かなかった。やはり私は頑固なのである。

 私が小学生だった頃の遊びはビー玉、メンコ、戦争ごっこ、駆逐水雷、肉弾、騎馬戦、乗り馬、けり馬、相撲だった。女子はゴム跳びやドッジボールをしていたようだ。「駆逐水雷」は二組に分かれて、それぞれの組に大将と駆逐と水雷を置く。大将が駆逐をタッチすると駆逐はまけるが、水雷が大将をタッチすると大将が負けて勝負がつく。駆逐は水雷に勝つので、大将の周りに駆逐が張り付いて敵の水雷を倒さなければならない。駆逐や水雷同士がタッチするとジャンケンで勝負が決まる。単純なゲームだが運動量の大きい、しかも作戦がものをいうエクサイティングなゲームである。「肉弾」は地面に陣地を描き、内側の線で囲まれた陣地の奥に置かれた石を攻撃側が奪うというゲームである。陣地の線の外側にも線を引き、攻撃側は内側の線と外側の線の間を走って陣地の入り口から敵陣に入り石を持ち帰らなければならない。しかし、敵の陣地の入り口までたどり着くのが容易なことではない。不規則に曲がった線の間を走ると守備軍が突き倒したり陣地に引きずりこもうとする。攻撃側の二、三人が少し広くなっている所にしゃがみこんで入り口から入り込むチャンスを狙っていると、守備軍の一人が自滅覚悟で飛び掛って行く。これが肉弾という名称の由縁である。「騎馬戦」も相手の帽子を取るというゲームではなく、相手を馬から落とさなければならないので勇壮である。その頃、私の乗る最強の馬の台になってくれたのが山本正治君で、彼とは今でも時々会う。もう一人の台になってくれた山本一夫君は事故で亡くなったと聞いた。当時の遊びは随分乱暴だったので怪我は日常茶飯事だった。体育館の無い小学校が多かったが相撲の土俵はどの小学校にもあり暇さえあれば相撲をとっていた。数年前に、昭和十九年に日明小学校を卒業した者の同窓会があった時、私を見た女の子たち(もう立派なおばさんになっていたのだが)が「ああ、相撲の強い三根さんね」と言った。もっとグレードの高いことを覚えていてくれるのかと思っていたので少々がっかりした。

 長女の明子は戦時中、黒崎窯業に勤務していた。空襲が始まると電車が走らないので、女性の中には会社や近所に住む同僚の家に泊まる人が多かったが、嫁入り前には外泊するものではないと一途に信じていた姉は山越えしてでも必ず歩いて帰宅していた。姉に思いを寄せていた親切な男性がエスコートしてくれることもあったが、私の知る限り、二人の間に何かが起った様子は全くなかった。それが当時の常識だったと言う人もいるが、当時でも間違いを起こした例があるのだから、やはり二人は純粋な人間だったのだと思う。

 その頃、父は失業中だったので、姉が三人の弟妹にお小遣いをくれていた。だから姉の給料日が待ち遠しかった。私は一番下の弟なので一ヶ月に十四銭もらっていたと記憶している。

 家中で一番陽気な姉の話を聞くのは楽しかった。小倉高等女学校に通っていた頃、水泳部員だった姉は顧問の竹内先生に首ったけだった。帰宅するといつも母に竹内先生の話をしていた。母も「それでどうなったの?」と催促しては二人で笑い転げていた。今、考えると、他愛もない女学生の話である。

 母は姉の学校の運動会を観に行くのを楽しみにしていた。姉は滅法足が速く、リレーではごぼう抜きを演じるし、障害物競走ではいつもぶっちぎりの一番だったから胸のすく思いだったのだろう。兄はひ弱で運動会はいつも見学していたし、私はまだ幼かったので、姉の運動会の日には母は前日からそわそわしていた。

 日明国民学校は我が家の畑の隣だったので、私が入学すると母は殆ど毎日授業参観をしていた。昼時には、だるまストーブの上の弁当箱をひっくり返したり、燃料をくべたりでクラスにはなくてはならない存在だった。私が青年団と一緒に詩吟大会に出かけたり、何かの大会で剣舞を演じる時には母が必ず付き添って来ていた。いつも同じ着物を着ていた母を「お母さんは博多人形のごとあるね。いつも同じ着物ば着ていらっしゃるけん」と思慮のない冗談を言って得意になっていた先生がいた。父も私もその無神経な先生が大嫌いだったが、母は嫌な顔もせずに笑っていた。

 末っ子ということもあって、私はいつも母と行動を共にした。買い物袋を提げて市場に出かけて知人に「この子は本当に腰ぎんちゃくでね」と話しながら母は嬉しそうだった。廃屋の廃材を薪として利用するために分けてもらってリヤカーに積んで運んだり、家の前の階段の下まで運んでくれる石炭をモッコに入れて天秤棒で運び上げたり、汲み取り式トイレの肥やしを母と一緒に担いで畑に撒いたり、薪を割ったり、お風呂に水を汲んだり、洗濯の時にはポンプ係りを勤めたり、家中の力仕事は私が全部引き受けた。だから、自然に足腰が鍛えられて、子供の頃は相撲で負けたことはなかったし、今でも体重の六十五パーセントが筋肉で、基礎体力があるのは遺伝もあるかもしれないが、子供のころからの労働のお陰だと感謝している。

 暇さえあれば竹の棒を振り回して遊ぶ乱暴な子供だったが、西の裏山のシルエットが夕陽にくっきりと見える時、ねぐらに帰るカラスの鳴き声につられて何となく悲しくなって涙を流す子供でもあった。畑仕事に精を出す母は、そんな時、手に持った鍬を置いて「利夫ちゃん、おいで。泣いていいのよ。神様は目と心を綺麗にするために涙を作って下さったのだから泣いてもいいのよ」と言って、私の頭をしっかり抱いてくれた。私は草の匂いのする母のエプロンに顔を押し当てて心ゆくまで泣いた。

 裏山にはよく母と薊を摘みに行った。玄関に木の花を欠かさずに活けていた母は根締めに薊を活けるのが好きだった。帰りにホオズキを見つけて持って帰り、洗面器の水の中で種を出して口に入れて上手に鳴らしてくれた。後に渡米して、デラウエアの山林でホウズキを見つけた時、母のあの仕草の一つ一つが鮮明に蘇って涙が止まらなかったことがあった。私は今でも薊が好きである。萩の大学に勤務していた時、道端に群生する薊を採って研究室の花瓶に差したものだった。でも、残念ながら薊は半日ももたずにしおれてしまった。

 父は短気でせっかちで気まぐれだった。ある日、急に思いついて庭に小さな池を作った。滝まで作って金魚を放して満足げだったが、明くる日には水は一滴も残っていなかった。父は更にセメントを塗って補修したが、何度試みても結果は同じだった。諦めの早い父は「えいクソ」と言って作業を中止してしまった。梅雨が来て、その池にも水が溜まった。そして、それ以来水は抜けなかった。ゴミか何かが、父が修理出来なかった小さな穴に詰まったのだろう。母は「まあ、お父さん、池は完成したじゃないの」と褒めた。父は何も言わずに苦笑いをしていた。母はちゃんと理由を知ってはいたのだが、細かいことを詮索しない「江戸っ子」の母はいつもそんな調子で皆を和ませた。夏の夕方、風呂上がりの母が腰まである髪を梳かしながらオシロイバナを摘んで笛の作り方を教えてくれた。その時の母のシッカロールの匂いが今でも忘れられない。

 当時は自宅に風呂のない家が多かったが、父が掘っ立て小屋の風呂場を作ってくれた。木で出来た風呂桶の一部に鉄の釜がある簡単なものだが、ちゃんと小さな窓が作ってあった。父は誰かが自分より先にお風呂に入ることをひどく嫌ったが私だけは一番風呂に入れてくれた。父に似てせっかちな私がまだぬるいお風呂に入って、釜のそばの温かい湯を手でかき寄せながらしゃがんでいると、母が「そうじゃなくて、ぬるいお湯を釜の方に押しやると、お釜の両端から暖かいお湯が出てくるのよ」と教えてくれた。十数年経ってから、私が「お母さんは、欲張ってはいけない。ひとに尽くすと、幸いは二倍になって返ってくるということを教えてくれたのでしょ」と言うと、母は「そんな難しいことを言った覚えはないわよ。お風呂の入り方を教えたのじゃないのかしら」と言って笑った。

 冬の昼下がりにパチパチ燃える薪の音を聞きながら早風呂に入ることほど贅沢なことはない。「湯加減はどう?」と言って小さな窓から母が蜜柑を二つ、三つお湯の中に投げ込んでくれた。身も心も温まるひと時だった。

 小学校に上がる前だったと思うが、うたたねをしている私を起こして十歳上の姉がお風呂に入れてくれたが、まだ完全に目が覚めていないのでよくお風呂の中で寝ぼけた。どうも、寝ぼけるとサムライになってしまうようで、「お許し下さいませ」と格式ばった口調でものを言うので、気味が悪くなった姉は「お母さん、助けて!また、利夫が威張りはじめたわよ」と助けを求めたそうだ。「寝ぼけ癖」は今でも治っていなくて、時々夜中に家内を起こしてしまう。

 父は子供たちとじっくり話し合うことは殆どなかった。いつも読書をしているか書きものをしていて、自分の兄弟からも母親からも敬遠されるほど気難しく孤高な人だった。でも、私だけは何度か父に連れられて町に買い物に行ったことがある。

 英国の作家ハワード・スプリングが自分の父親のことを書いたものを読んだことがある。彼が子供の頃、長い入院生活の後、退院して父親と歩いて帰宅する途中で知人に合った時「ねえ、この子元気になったよ」と得意げに話した。その時初めて短気で無口で孤高な父親にとって自分が何がしかの存在なのだと実感したと彼は述べている。今、父のことを思い出すと、露天でそば饅頭を買って二人で紫川の土手で食べた時の父の笑顔を思い出す。父にとって私はやはり何がしかの存在だったのだと思うと胸が熱くなる。

 半世紀以上も前の想い出は幾つかのハイライトの連続である。手に大やけどをして包帯で腕を吊っていた時、大好きな三輪車に乗せて押してくれた姉の暖かい手、三輪車に乗ったまま石段から転げ落ちて、ちょっとした擦り傷なのに大げさに泣き叫ぶ私を抱きかかえて家に連れて帰って包帯を巻いてくれた大屋さんのおじいさんの白い髭、桃の木の切り口から出るねばねばしたヤニを、丸く曲げた草の茎に器用に薄い膜を作って遊んでくれた近所のお姉さんの細い指、猫じゃらしで輪を作って引張りっこをして遊んだ時の友達の笑顔、癇癪丸を油紙に包んで土に埋めて、秘密の弾薬庫を作った村田君と三宅君、板櫃川の土手に寝転んで宵待ち草の甘い蜜を舐めながら流れる雲の形を指でなぞって遊んだ寺崎君。他愛もないことだが、私の心の中には美しいメロディーになっていつまでも響いている。「みんな、みんな優しかったよ」