(1)悔いばかりの人生
《わが人生に悔いなし》と公言する人がいる。そんなタイトルの自叙伝を書く人もいる。羨ましいかぎりである。私の人生は「悔い」の連続である。挙げ連ねれば際限がない。
アメリカ留学中にガーナの文部大臣からガーナの大学で日本語を教えないかという誘いを受けたことがある。途方もないことのように聞こえるかも知れないが、それ程法外な話ではない。と言うのは、ガーナの初代大統領ンクルマ氏は私が留学していたペンシルバニアの卒業生だったという縁で、ある年のガーナの独立記念日に文部大臣が大学の記念式典で講演をしたのである。私は当時としては数少ない東洋人の留学生を代表して歓迎のスピーチをして、その夜のレセプション・ディナーに招かれたのである。その時、大臣が将来アジアの指導的立場に立つであろう日本との交流が大切になるとの見通しから私にガーナの大学で日本語と日本文化を教えてくれないかという打診があった。後に条件等を提示した書類が送られて来たが、給料や生活環境が悪いので断った。20世紀後半からアフリカ大陸が注目されるようになり、今後この傾向はますます強くなるであろうということを考えると、あの時ガーナの大学からの招聘を受けておけばよかったと後悔する。
昭和46年か47年ごろに山口県宇部市でニュージーランドの物産展が開かれ、東京から領事館の役人が来て、会期中宇部に滞在した。どのような経緯だったのかはよく覚えていないが、通訳として物産展をサポートした。後に、領事館から連絡があり、クライストチャーチの大学で日本語を教えないかと言う誘いを受けた。この時も、給料が余りにも安く、住宅や自動車が滅法高かったのでオファーを断ったのだが、今になって考えれば、あの美しいクライストチャーチの町で教鞭をとる仕事をみすみす断ったことは残念至極である。
昭和40年ごろから5年間、下関の水産大学校で英語を教えた。ちょうど大学紛争がたけなわな頃で、授業のボイコットがあったり、勢力争いで教員間に亀裂が生じたりした。もっとも、教員間の亀裂は大学紛争の時に始まったものではなく、いつの時代にも、どのような人間社会にも存在する陳腐なものなのだが、30歳代前半だった私はやけに潔癖になり、そのような所で教えることが嫌になり突然退職した。辛抱して教えていれば、定年退職後の国家公務員年金で優遇されて、もっと楽な年金生活が送れたのだろうと思うとこれも残念至極である。
女性に関する後悔は思い返すだけでも吐き気をもよおすので、忘れたことにしている。