| (10) イエス・サー 北九州の小倉で終戦を迎えた。若い女は凌辱をうけ、金目の持ち物は強奪されるという噂が流れたので、農村部に親類や知人がある家族は大八車に家財を載せて夜を徹して田舎に逃げた。噂は噂を呼び、夜通し聞こえる大八車のわだちの音に恐怖感が増幅されて落ち着かない日が続いた。戦争中は国防婦人会の要として先頭に立って銃後の護りの旗を振っていた良家の婦人たちや、隣組をまとめて銃後の護りの訓練の指揮をしていた名士や在郷軍人たちは町内には一人もいなくなった。田舎に親類も知人もいない人たちは不安に駆られて私の家に集まった。父の出身地の佐賀は大八車を引いて歩いて行ける距離ではないので腹をくくって残留していた父と、明治時代にアメリカ留学の経験のある祖父がアメリカ軍はモラルの高い軍隊であり、ポツダム宣言を受け入れて降伏した日本人に対して理不尽な行動はとらないということを説明して、占領業務を妨害せず、毅然とした態度で彼らに接すればいいのだと話し、人々は半信半疑だったが、一応落ち着いて帰宅した。 数日後、戸畑方面から小倉の中心部へ続く国道199号線を米軍の戦車部隊が示威行進した。今までに見たこともないような重装備の戦車が数十台黒煙をあげて進み、その横を完全武装の歩兵部隊が歩いた。戦車の上の蓋が開いていて重機関銃を構えた兵士が周囲を警戒しながら無線機で他の戦車と連絡をとっていた。この行進を見た日本人は「これでは戦争にならないね。この人たちの装備には到底歯がたたないよ。負けて当たり前だ」とあきらめ顔で話していた。天皇の詔勅を聴き、無条件降伏が決まると戦場ではあれ程手を焼いた日本人が一転して殆ど抵抗もせずに武装解除に応じたので米軍は拍子抜けしたのではないだろうか。これを「潔し」と言うのかどうかは分からないが、日本人は元来「能天気」な国民なのかもしれない。 数日後、左の肩に赤い矢印のついた軍服を着た若い兵士が小倉市内のあちこちで見かけられるようになった。彼らは本土から来た新兵で、熾烈な戦闘を体験したことがないという噂を聞いた。誰も武装しておらず、チューインガムを噛みながら「ハロー」と笑顔とチョコレートを振りまいた。その頃になって田舎に逃げていた町の名士たちが恥ずかしそうに戻って来た。一方、父は人気者になっていた。 祖父は英語が分かるという理由で通訳を頼まれることもあった。私は夏休みに市役所の渉外部で米軍へ労働者を送り出す仕事をした。米軍からの要求が出ると、日本人労働者に仕事の内容を伝え、必要人数を集めるのが仕事だった。中学生の私には容易な仕事ではなかったが、どきどきしながら辞書を片手に仕事をした。ある日、
“Fountain Boy”が必要だという指令書が届いた。分からないことがあると近くにいる米兵に尋ねるのだが、運悪く誰もいなかったので辞書で
“fountain”とひくと「噴水」「湧水」とあったので、「水まきの仕事だな」と思い三人の希望者にその旨を伝えて送り出した。午後五時に仕事が終わった三人に日給の封筒を渡すと、彼らは「三根さん。水まきじゃなかったよ」と言った。聞いてみると、酒保(兵士たちの憩いの場)のようなところで飲み物をジョッキに入れて兵士に渡したり、カップを洗ったりする仕事だったようだ。要するに、この “fountain”は “soda-fountain”のようなものだったのだ。 後に、大学に入ってから米軍基地で働いていた時もそうだったが、私たち日本人労働者の上役は米軍兵士や軍属で、彼らと話をするときには必ず
“Yes, sir.” “No, sir.”という風に sirをつけなければならなかった。米国留学中、南部を旅行したとき、黒人は必ず白人には
sirや ma’amをつけて話をすることを強要されていた。うっかり sir、ma’amをつけないと、「誰に向かって話をしていると思うのか?」と怒鳴られていた。 一九五七年(昭和三十二年)に渡米した時、ロスからバスで大陸を横断した。途中、レストランに立ち寄ったとき、注文をとりに来た白人のウエートレスが
“What would you like to have, sir?”と言ったとき、私は謂れのない困惑を感じた。ほんの半月前まで私がsirをつけてものを言っていたのに、ここでは白人の婦人が私に対して sirをつけるのである。この困惑感はその後も続いた。日本人がアメリカの基地は要らないとか、核兵器や事故率の高い航空機を持ち込むなと主張してデモをする気持ちは分かるのだが、あれ程完全に打ち負かされ、無条件降伏をした時の無力感と恐怖感を体験した私はアメリカに強い態度で「帰れ!」と叫ぶことを本能的に躊躇する。戦後、食糧難で多くの人が栄養失調で死んだ。その時、ミルクや衣服を無償で与えて復興を助けてくれたアメリカに一種の負い目を感じている私がいるのは事実だ。栄養失調の日本人を助けたのは冷戦下のアメリカの戦略だと冷静に分析する人もいるが、目が回るほど空腹な時にアメリカの粉ミルクや大豆で腹を満たした経験のある者にとってアメリカは世界の中の「今ひとつの国」(another country)とは割り切れないのではないだろうか。個人的なことだが、昭和三十二年から三年間、大学の授業料からお小遣いにいたるまで全額を支給して私の留学生活を支えてくれて、その後、フィラデルフィアでの三年間の生活を支援してくれたのもアメリカだし、アメリカ市民の道を選んだアメリカ生まれの息子の祖国なのだから、理屈を超えて、私にとってアメリカは「今ひとつの国」ではあり得ないのである。 *ニューヨークハーバーにて |