(12)子守唄

 私の母はいつも歌を口ずさんでいたが、父や兄が歌うのを聞いた覚えがない。音楽の教師をしていた5才年上の姉は、教会で讃美歌を歌うが家では歌っているのを覚えていない。ずっと前に、カトリック教会のドイツ人神父がテレビで、声楽家の歌声は作り声だから興味がないと言っていた。歌うことにもTPOがあるから、台所でお皿を洗いながらオペラをやられたら堪らないが鍛え上げられた声楽家の声を「作り声」の一言で片づける勇気は私にはない。数年前に福岡でキャサリン・バトルの演奏会を聴いたが私たちとは領域の違う美しい声に、文字通り「魅せ」られた。

 フィラデルフィアの黒人の長老教会で教育主事をしていた時に、その教会の黒人の牧師が南部バプテスト教会の聖歌隊の歌う讃美歌を「耐えがたいほど泥臭い」と評した時に私は強い反感を覚えた。黒人社会では上流の人たちが集まる長老教会の聖歌隊がパイプオルガンの伴奏で歌う洗練された聖歌は確かにすばらしいが、下町の雑貨店を改修した小さな教会で、調律をしていないピアノに合わせてタンバリンやカスタネットを打ち鳴らしながら、普通のおじさんやおばさんが、ありったけの声を張り上げて歌う聖歌も同じように感動的で、心が震える。

 何度も繰り返して見た映画の一つにグレゴリー・ペック主演の「アラバマ物語」がある。原名は「モッキンバードを殺す」だが、その題名が示唆に富んでいるので面白い。グレゴリー・ペックの演じる弁護士のアティカスが息子のジェムに「本当は裏庭で空き缶でも撃っていて欲しいが、どうせ鳥を撃ちに行くだろう。撃てるのならば好きなだけブルー・ジェイを撃ちなさい。でも、モッキンバードを撃つのは罪だよ」と言うところがある。これを聞いていた娘のスカウトは近所のモーディーおばさんにその訳を尋ねると、モーディーおばさんは「モッキンバードはよその家の畑を荒らすでもなく悪いことは何ひとつしない。することと言ったら、心のうちをさらけ出して私たちのために歌を歌うだけだよ。だから、モッキンバードを殺すことは罪なんだよ」と答える。この言葉の中に歌の奥義が見えると思う。つまり、心の内をさらけ出して歌うのが本当の歌なのだと思う。パイプオルガンや声楽の訓練を否定するものではないのは勿論だが、心を震わせる歌に欠かせないものは「心」だと思う。

 末っ子で、泣き虫で、人いちばい淋しがり屋だった子供の頃の私が(とこ)につくと、私が眠るまで母は私の頭を撫でながら子守唄を歌ってくれた。浅草生まれの母の十八番(おはこ)は「ねんねんころりよ、おころりよ。坊やは良い子だ、ねんねしな」という江戸の子守唄だった。冬には、小さなて手あぶりしかない、隙間風がどこからでも入って来る部屋のせんべい布団の中で、夏には部屋中に張りめぐらされた麻の蚊帳の中の暑い寝床に横になっても、母の子守唄でぐっすり眠れた。

 数年前に家内が脳内出血で頭蓋骨を十数センチも切開する大手術を受けた。手術直後は自分の名前すら言えないほどの重症だったが、私が頭を撫でながら子守唄を歌うと穏やかな顔をしてぐっすり眠った。今ではすっかり回復して後遺症も殆どなく小学生に英語を教えるまでに回復したが、私は毎晩家内のために子守唄を歌っている。家内の、子供のような寝顔を見ると、母が私に歌ってくれた子守唄を思い出す。モーディーおばさんがスカウトに言ったように、心のうちをさらけ出して歌うモッキンバードのことを思い出している。

 「坊やのお守はどこへ行った。あの山越えて里へ行った。里の土産に何もろうた、でんでん太鼓に笙の笛」



 







 左:姉と母、常盤公園にて          
 右:母と一緒に、宇部短大玄関にて