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ICUの悪魔と天使
 

 私は2011年11月に心臓のバイパス手術を受けた。10数年前に大腸がんの切除手術を2度受けているので大きな手術は3度目だが、ICUに入るのは初めてである。夜中でも照明を完全に落とさないとか、山のような機械が夜通し唸り声をあげているので眠れないというような注意は聞いていたが、滅多に経験出来ないことだからよく観察しておこうと思った。手術を受ける前に石川達三の「四十八歳の抵抗」を読んでいたので薄暗い不気味なICUはファウストの舞台と二重映しになっていた。

 私のベッドは一番奥に位置していたので、部屋全体が見回せた。全身麻酔から徐々に覚醒している時期なので、私が見たものは可なりひずんだものだったと思う。例えば、私のベッドだけが高い位置にあったわけではないのに、麻酔から覚醒する過程ではICUの片隅の5メートルほどの高さに置かれたベッドから部屋を見ていたように感じていた。一方、理性的にはベッドは床の高さにあるに違いないのでこれは幻覚だということも自覚していた。

 ICUから病室に戻った翌日だったと思うが、手術中つき添ってくれた女性の麻酔科医のDr. Oが病室を訪れてくれた時に、薄暗いICUに突然黒ずくめの、太い黒ぶちの眼鏡を掛けたメフィストが音も立てずに現れたことを話した。
 「メフィストは小柄で、髪は短くクルーカットにしていて、太い黒ぶちの眼鏡を掛けていたんです。音も立てずにまっすぐに私のベッドへ近づき“採血です”と小声で言うと、私の手術着の左の袖をあげて、左の前腕の外側を数回こすって、黒く四角なもので手首あたりに触れ、血液らしいものが入った瓶を軽く振りながら灯りのある机のほうへ歩いて行き、ビンを灯りに透かして見てから、また音もなく部屋の奥へ姿を消したんです。」
 「採血の時に痛みがありましたか?」
 「いいえ。全然痛みを感じないばかりか、メフィストは注射の後に絆創膏も貼らずに行ってしまったんです」
 「それはおかしいですね。前腕のどの辺をこすったんですか?」
 「この辺からこの辺にかけて軽くこすったんです」と言って前腕を見せると、Dr. Oはおもむろに私が示した部分を触ったり眺めたりしてから、
 「針の後なんて全然ありませんよ。ただ、乾燥肌になっていますね。これは、あなたの幻覚です。麻酔が覚醒する過程でよくあることです。」
 「いや、あれは幻覚ではありませんよ。私はそのメフィストの顔形の全てを刻銘に観察しています」と言って、紙の上にイラストを描いた。
 「これ程克明に記憶しているのだから幻覚ではないでしょう」と私が言うと、Dr. Oは
 「いいえ、それが幻覚なのですよ。幻覚は色々な形をとります。これは典型的な幻覚です」と言って、私がイラストを描いた紙を振り回しながら家内と一緒になって大笑いするのです。そこまで言われると私も黙っていられません。
 「一度だけではないんですよ。メフィストはその後も一、二回来て採血しました。」
 「やはり、痛くなかったんですか?」
 「ぜんぜん!」
 「うちのICUにはそんなメフィストのような人は働いていませんし、これは幻覚ですね、明らかに」
 「でも、ICUには天使もいましたよ!」と私が言うと、
 「今度は天使ですか? どんな天使ですか?」
 「黒っぽい服なんですが・・・。」
 「天使は大抵白い服に羽があるんでしょ!?」
 「先生は初めから私の言うことを信じていませんね。この天使は黒っぽい服を着ていて、ズック靴を履いた足は殆ど床に触れずに移動するんです。」
 ここまで話すと、Dr. Oと家内は真っ赤になって笑いながら、手を横に振りながら「あり得ない、あり得ない」と言った。

 私は更に、その天使が音もなく私のベッドの後ろに来て、
 「お顔をお拭きしましょうね。最初は目と眉毛の間です。次は眉毛の上ですよ」と言って左手で優しく顔をおさえながら、程良い温度の白いタオルで顔を拭いてくれたことを話した。次に、今度は左腕で私の頭を包み込むように抱えて、まるで前に置いてある鏡を覗き込むような動作で「オグシをきれいにしましょうね」と言って髪を梳ってくれたのだが、頭の中央付近から左右に髪を分けたのでヒットラーみたいになったので「髪は全部後ろに撫でつければいいんです」と私が言ったと話した。

 ここまで話すと、Dr. Oも家内もあきれ顔になり、特にDr. Oは「“おぐし”なんて言葉を使うひとがうちのICUに居るはずがないでしょう?!メフィストの話と言い、天使の話といいまさにこれが幻覚なんです。」と言って笑った。
 「でも、これ等のすべてを私は克明に覚えているんです。メフィストが採血した時、確かに痛みは全くなかったのですが、去って行く時、左の親指がまるでアルコール液を浴びせられたようにスーと冷たくかんじたのもはっきり覚えています」と言うと、Dr. Oが急に真顔になって、
 「それってあり!手術中にいつでも採血出来るように左手の親指のところから管を入れてあるのです。その人はそこから採血したので痛くなかったんです。左の前腕をこすったのは腕を真っ直ぐに伸ばすためです。最後に親指の所がスーと冷たく感じたのは血が固まらないために食塩水を入れたからです」と言った。
 「それみてご覧なさい。幻覚じゃなかったでしょ?」と私が言うと、Dr. Oと私の家内は声を揃えて、
 「でも“おぐしをきれいにいたしましょう”はないでしょう」と言って笑った。

 私のメフィストを幻覚だと言い張って、結局間違いだったDr. Oは、私の名誉のためにも「ICUの天使」を見つけて欲しい。退院してから、食後に私が揺り椅子でうとうとしていると家内が蒸しタオルを持ってきて「最初は目と眉毛の間ですよ」と言いながら顔を拭いてくれる。有難いのだが、次に櫛を持って来て「おぐしをきれいにしましょうね」と言って髪を梳かそうとする。Dr. Oは、ICUで少なくとも、“おぐし”という京言葉を使う人を探し出して欲しい。さもなければ、私はこの事で一生家内にからかわれることになるのである。