(8)落書き

 1945年から数年間、山口市のアメリカ人宣教師のグラブス先生の宣教師館に居候(いそうろう)をした。グラブス先生は大変器用な人で、ピアノやオルガンを上手に弾き、市内の若い教会員や大学生を集めて聖歌隊を編成し、毎週その指導をした。市内にプロテスタント教会が三つあった。どれも、戦時中に生き残りをかけて作った日本基督教団に属す教会で、旧長老派・メソジスト派・組合派の三教会で、教会どうしの交流は余りなかった。特に、組合派の教会は新しく出来た教会で他の二つの教会との交流は全くなかった。聖歌隊の練習の場所を各教会間で持ち回りにしていた事を見ても、グラブス先生が三つの教会の若者を中心とした聖歌隊を作った目的の一つは教会間の交流の足がかりを作ることだったのだと思う。

 グラブス先生は日本語にも造詣(ぞうけい)が深く、桜の季節に窓を開けて「今日は花曇りですね」と言うほどだった。私が米国から帰って来て宇部工業高等専門学校に就職した時、学校の住所を「(とき)()(だい)」と言うと、「トキワはジョウバンと書くのですか?」と言って周囲の人を驚かせた。その頃、先生のご両親がアメリカから来日したので、関係者と一緒に秋芳(しゅうほう)(どう)を案内したことがあった。グラブス先生は洞内(どうない)を歩きながら日本語の立て札をすらすら読むので誰かが「先生は本当に日本語がお上手ですね」と言うと、「そうですか?それ程でもありませんが、少しは分かるんですよ」と言って、そばの「文化財保護委員会」と書いてある立て札を読んで見せてみんなを感心させた。少しお調子者の先生は、ベンチの置いてある休憩所の壁に「落書きするな」と書いてあるのを見て、()せばいいのに「オチガキスルナ」と読んで、今まで感心していた人たちに「やっぱり外人さんだわね!」と言わせてしまった。勿論、これは「当て字」なので、「落書き」が読めないから日本語が分からないと言うのは当たらないが、言葉の難しさをつくずく思い知らされた。

 これも何十年も前のことだが、四国で宣教活動をしたことがあるローガン先生が久々に来日なさったので講演会に出席した。賀川豊彦先生が若いころにローガン先生が開いていた教室で英語を習ったというのだからローガン先生は日本の基督教会の開拓者の一人だと思う。当時の日本人は靴を履いていなかったので、ローガン先生が靴を履いて自転車で出かけると犬に吠えつかれて困ったが、日本人はとても親切なので、数年経つとみんなが靴を履いて下さったので犬に追いかけられることがなくなったと言って聴衆を笑わせた。

 講演会の後の座談会で関東大震災の話が出たとき、ローガン先生はしばらく考えたあとで、「東京の大きな地震」と言った。何十年も日本に住み、言葉に関しては不自由のないローガン先生の口から、誰でも知っている「関東大震災」というフレーズがスラスラ出て来ないことに驚いたことを覚えている。座談会のあとでそれぞれが持って来た昼食を食べる時、ローガン先生がアルマイトの弁当箱をカバンから取り出したので、余りにも日本化した先生の生き方に会場には温かい笑顔がいっぱい見えた。食前のお祈りのあと、先生が箸ではなくフォークを取り出した時、笑顔は安堵(あんど)したような笑い声に変わった。
                                                                           *写真はグラブス先生とご両親。
    秋芳洞にて。