ランカスター神学校

 リンカーン大学の神学部は新入生の数がすくなくなり私が入学してから二年後に閉鎖になった。創設時には黒人が進学できる高等教育施設は限られていたが、徐々に黒人を受け入れる大学が増えたので、多くの優秀な黒人はハーバードやプリンストンへも進学出来るようになった。私は三年分の奨学金を受けていたので、問題なく近くのランカスター神学校に転学できた。殆どの同級生も同じ神学校に転学したので私の生活は余り変わらなかった。

 ランカスター郡は十七世紀にドイツから移民して来たアーミッシの大きな集落があることで有名である。アーミッシについては、ハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック目撃者」というアメリカ映画の中でかなり忠実に紹介されている。彼らは彼らなりに解釈した聖書の教えを(かたく)なに信じていて電気や自動車をふくむ文明の利器を使わずに生活するメノナイト系のクリスチャンである。結婚すると(ひげ)を剃らない習慣があり、自動車の代わりに馬車を使う。結婚するまでは馬車に(おお)いを掛けることが禁じられているので雨の日は合羽(かっぱ)を着て馬車に乗る。粉をひいたり水を汲んだりするための動力源は風車である。彼らの風車はオランダの風車のような大がかりなものではなく簡素なものだが、裏庭の塔の上でゆっくり回る白い風車はランカスターのシンボルである。料理用のストーブの燃料は薪を燃すので家事には手間が掛る。広大な農地を馬で耕作するので日の出前から日没まで農作業に精を出す。華美(かび)を嫌い絨毯(じゅうたん)やシャンデリアはご法度(はっと)である。面白いことに、自分たちはタバコをすわないがタバコが彼らの最大の農作物である。家には電話はないが公衆電話を使い、遠くへ行く時にはタクシーやバスを利用する。枯れ草を束ねるガソリン・エンジンつきの機械を馬が引く荷台に載せて作業をする者もいる。悪意をもって見れば、これは矛盾だと言いたくなるのだろうが、文明の利器を使い始めたために人間は便利さの代償として温かみとか、創ることの美しさを失ってきたことは否めないし、出来ることなら自然に近いシンプルライフを送りたいという気持ちは誰にでもあるのだから、最小限の妥協はしても、勇気をもって(かたく)なに自分たちの生活様式を守ろうとするアーミッシを私は尊敬する。

 アーミッシは子供たちをアメリカの学校で学ばせず自分たちの小さな学校で教育する。しかし、アメリカの教員免許を持った先生がいないと学校が成り立たないという悩みが出てくる。私の行っていた学校の近くのアーミッシの学校も教師がいなかったので、教員免許を持ったボランティアの教師を外部から招いていた。法律にさえ触れなければ自分たちと異なった生活をすることを容認するアメリカ社会の懐の深さに感心する。

 アーミッシたちは保険に入らない。自分たちで助け合って生きるので必要ないのである。ある意味では原始的共産主義社会である。近くの納屋が全焼したことがあったが、仲間が駆けつけて一週間足らずで新しい納屋を建ててしまった。何十人もの男たちが巨大な屋根に上がって作業をし、下では何十人もの女性たちが炊き出しをしたり水を運んだりする姿はまさにユートピアを目のあたりにしているような光景だった。

 ランカスター神学校は学生数百二十名ほどの、小さな学校だった。学生の殆どが中・上流の白人で、教授は全員白人である。独身者用の寮と家族持ちの学生が住む寮があり、食堂は美しい石の床で冬には暖炉に火が入る。本格的なウエーターが数人ついて、子供を含めた家族全員で食事を共にする。私は毎晩食堂の床を掃除するアルバイトをして週に十五ドル稼いだ。ここでも私のタイピングの特技が役立った。二十枚ものレポートを数種類提出するには相当な時間が掛るので、タイピングの遅い学生に代わってタイプを打って、一晩に二十ドルほど稼いだ。

教授たちとはリンカーン大学の時ほどの深い付き合いはなかったが、皆礼儀正しく、一応親切だった。蝶ネクタイをした事務長のホーリンガー氏はとても思慮深く、暖かい人で、何度も自宅に招かれた。私の祖父、中田亀太郎が一八九四年から十年間サンフランシスコで印刷技術を習ったことを知ると、息子さんの勤務している印刷所に連れて行ってもらった。今ならば、コンピューターを使った印刷機を導入するのだろうが、当時は直径三十センチほどの鉄製の円盤に切り込まれた、大きさと字体の異なるアルファベットを使ってフィルム上に印字する巨大な機械が一部屋を埋め尽くしていたのに驚いた。 

留学生はギリシャからのキモン・ファーレンタキシ、東京からの鳥山明子、それと私の三人だけだったと覚えている。キモンは果物と散歩が大好きでバナナを握ってよく一緒に散歩した。鳥山さんとは寮も違っていたので余り付き合いはなかった。ランカスター大はよく整った、エヴァンジェリカル・リフォーム教会系のレベルの高いエリート校で、儀式を重んずる、いわゆる「ハイ・チャーチ」だった。ステンドグラスの美しいチャペルや立派なパイプオルガンには感銘を覚えた。 

ミラーさんという写真館を経営する人と知り合い、アーミシの家庭を訪問して、外部からは見えない悩みや問題も少しは理解できるようになった。アーミッシの人たちは,出エジプト記二十章四節の教えを忠実に守って、人物画や人物写真を家に飾ることをしない。しかし、ミラーさんの写真館で写真を撮ってもらう人もいる。彼等は、いわゆるリベラル派でトラクターで畑を耕すので地元の人は「トラクター・アーミシュ」と呼ぶ。 

 同級生の多くが家族持ちで、博士号を持っている人も二人いた。殆どの人は裕福だったが、花屋の経営者、ローカル・ラジオ局のアナウンサー、鍛冶屋、肉屋等の仕事を持っている人もいて、彼等の苦労話は面白かった。

 アメリカ人は物に徹底的に凝る人が多い。通信販売で何年もかけてパーツを取り寄せて自分で高級車を組み立てる人がいるし、教会員がそれぞれの特技を活かして数年がかりで教会を建てるのだから驚きである。父親が家中に何百もの古い置時計を展示している同級生の家に行ったことがある。時刻が来るとそれらが一斉に時を打つのには驚いた。私の家の玄関に置いてある置時計はその時戴いた古い時計である。

 ランカスター神学校の隣にフランクリン・マーシャルという大学がある。この大学はランカスター神学校とは姉妹校だったと記憶している。黒人作家のラングストン・ヒューズがリンカーン大学在学中にこの大学との合同のYMCAの会合に出席した時、黒人学生の入学を許可しないことを討議したことの詳細を自伝に書いているが、ランカスターは全てにおいて保守的な町だった。古く美しい伝統を保った、犯罪率も低く住みやすい町だったが、黒人から見ると必ずしも住みやすい町ではないのだと思う。興味のある人はヒューズの自伝 “Big Sea”の終わりのほうの ‘Interracial Conference’を読んで欲しい。

 ランカスターでの生活は恵まれた環境での一年間だったが、リンカーン大学在学中のようなインパクトはなかった。

私はリンカーン大学在学時代からフィラデルフィアの黒人教会で働いていた。ランカスターに転学した後もその仕事を続けていたので毎週金曜日に同級生の車に同乗させてもらってフィラデルフィア通いをした。道路脇に野菜や果物が並べてあり、箱に料金を入れて好きなものを持って帰るという無人販売所が所々にあった。私が一番気に入ったのは容量一ガロンほどの首の長いビンに入ったアップル・サイダーである。今日まであの道路脇で買ったアップル・サイダーほど美味しいものを飲んだことがない。アーミシの農家に立ち寄って出来たてのシューフライ・パイといっしょに自家製のアイスクリームを食べるのも楽しかった。「シューフライ」というのはハエを「シュー」と言って追い払わなければならない程美味しいというわけなのである。アーミシのお婆さんがドイツ語なまりの英語で「スプラッチ・ヴァーター」と言って孫に庭に水を撒かせるのを見て、短い歴史とは言ってもこの国の歴史の重さを感じた。

ランカスターは雪が深く、一メートルほどの積雪も珍しくない。夜中に大雪が降るとあらゆる車両が止まってしまうので町は静まり返って、聞こえてくるのは、車輪の代わりにそりをつけて走るアーミッシの馬車の鈴の音だけである。多くの学校が休校になるので子供たちは路上や広場でスキーやそり遊びをする。雪が上がると人々は雪の中からそれぞれの車を掘り出して翌日に備えるのである。 

 ランカスターでの一年間も有意義だったが、私には、少し位羽目を外しても目立たない、黒人霊歌の聞ける、暖かいリンカーン大が向いているように思えた。

       ランカスターの親子

      ランカスターの親子

 ランカスターの馬車         
        ランカスターの馬車
 ランカスターの図書館

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