生い立ち

 昭和六年に東京都(当時は東京市)で生まれた。母は浅草生まれのちゃきちゃきの江戸っ子だが、父は佐賀の武雄の旧家の出である。母に言わせると父は「田舎っぺ」である。私が母の胎内にある頃、都合で母は父の実家の武雄にいたのだが、上の三人の子供が全部東京生まれなのに私だけを「田舎っぺ」にしたくないと言って東京に戻って私を生んでくれたので私は渋谷区幡ヶ谷の生まれである。

 警視庁に勤務していた父は身分不相応の、門構えの大きな家に住んでいたので、母は家計のやりくりに苦労したそうだ。家の前には車止めがあり、比較的に安全だったが暴れん坊の私を気遣って門に錠をして庭から外へ出られないようにしてあったが、私は塀の下を掘って外に出るので目が離せなかったと母は言う。その頃の私の見張り役は祖母の飼っていた猫の「たま」だったそうだ。私が脱出すると塀の上で見張っている「たま」が大きな声で鳴くので直ぐに分かったらしい。

  四人の子供のうち、関東大震災に遭遇したのは一番上の姉、明子だけだった。十六歳で結婚した母は姉を背負って火の中を逃げて、父の言うとおりに大きな土管にもぐりこんで父の援けを待っていたが、勤務中の父がやって来たのは翌朝だった。サーベルの音が近づいてきて、幾つか先の土管の上に仁王立ちになっている制服姿の父を見た時ほど父を頼もしく思ったことはなかったと母は何度も話してくれた。

 思想犯の取り締まりで荒畑寒村の担当になった父は、寒村の人となりに接して同情的になり、彼の家で話しこむことが多かったそうだ。彼の蔵書を借りて読むうちに警視庁の姿勢に疑問を持ち始めて退職した。その後、親戚の家の電気会社の手伝いをするために北九州の小倉に転居したので、私は子供時代を小倉で過ごした。

 当時は余程裕福な家庭の子供以外は幼稚園へは行かなかった。私も幼稚園へ行った経験はない。しかし、母が面倒をみていた青年団の若者たちが色々な所へ連れて行ってくれたので退屈はしなかった。週に何度か夕方から青年団の詩吟の練習が小学校の講堂であっていたが、私はその練習を見に行くのが楽しみだった。講堂の入り口の石段の所で見ているのだが、そのうちに寝込んでしまう。帰りが遅いので母が迎えに来て眠り込んでいる私を抱いて帰ってくれたこともしばしばあったそうだ。 

 ある時、斉藤監物作の「踏破る千山万嶽の煙」という詩の、ちょっと変則的なメロディーの箇所を稽古している時に誰もその箇所を歌えないので、先生も困り果てて気分転換のために入り口でいつも聞いている私を手招きして「僕、来て、ここの所を歌ってみてごらん」と言った。私が「すうこうのお〜お〜お〜こうるい・・・」(数行の降涙)と歌うと先生も青年団員も目を丸くして驚いた。まさに「門前の小僧」である。その時から入り口の石段の指定席はお払い箱になり、私の席は講堂の中に移動した。それから、私は青年団のマスコットになり、市の詩吟大会で特別出演した。準青年団員なので剣舞も習った。私の十八番は「城山」だった。袴をはいて日の丸の鉢巻をして、腰には刀を差して「孤軍奮闘」のところで走って出て行き、体操選手のように床の上で一回転してから刀を抜くのである。終わりのところで腹を出して日本刀の刃に手ぬぐいを巻いて握って切腹すると、決まって大拍手が沸き、舞台には白い紙に包んだ「おひねり」が降ってきた。

 小学校に入ってからも傷病兵の慰問で九州中の軍の病院を訪問しては、当時では貴重品だったお菓子を沢山お土産に貰った。芸は身をたすけると言う諺は本当だった。

 その頃は、数週間に一度、お菓子のサンプルの入った何段もの薄い箱を大きな風呂敷に包んだものを背負ったお菓子屋さんの御用聞きが回って来たものだ。玄関先に箱を広げて注文を取って帰るのである。幾つかの品は余分に持って来ているのでその場で買うことも出来た。白い紙袋にお菓子を入れて、口の両端をつまんで器用にくるくると回して手渡してくれる。私はそんな仕草を見るのが好きだった。ある時、動物ビスケットを買った時、母がみんなが帰ってから分けて食べるように言ったが、一人で食べたいと言って駄々をこねた。「沢山あるのだから、一人では食べきれないのよ」と言ってきかせても、どうしても聞き分けがないので、「それなら、一人で食べなさい。本当に全部たべられるのね?」と母は念をおした。私は嬉しそうに食べ始めたが、到底、一袋全部は食べられなくて、袋にビスケットを残したままで遊びに出ようとしたら、母は「全部食べると言ったのだから、全部食べなさい」と言って、私に馬乗りになって口の中に残ったビスケットを全部押し込んだ。その時以来、私は欲張らなくなったそうだ。これが母の私に対する教育法だった。「私に対する」と言ったのは、他の子供たちには適用する必要がなかったそうだ。

 覚えている人もいるかも知れないが、小さな竹の筒に入った「ご飯の友」という振りかけがあった。夕食の時、ご飯に振りかけを掛けようとしたら、母がそれは振りかけではなくて唐辛子だと言った。でも、同じような竹の筒に入ったものなので、私はどうしてもそれをご飯に掛けて食べると言ってきかなかった。「では、食べてご覧。辛いわよ」と言われて、家族全員が箸が休めて見つめるなか、私は得意げにご飯が真赤になるほどたっぷり唐辛子を掛けて食べた。勿論、辛かったが、幼いながら引っ込みがつかない事態は分かっていたようで、平気な顔で全部平らげた。あとで、舌を出して寝ている私の寝顔を見た母は吹き出したそうだ。後年、母は当時のことを「この子はどんな子になるのかしら。こんなに小さいのに、こんなに頑固で、と思ったわよ。でも、母さんはね、あんたが可愛くて、舌を出しているあんたの顔を団扇であおいであげたんだよ」と述懐した。私は凄く大きな、大きな母の愛に包まれて育ったのだと思う。だから、その愛に相応しい生き方をしなければ母に申し訳ないと思う。