日本のイニシエート(機関誌ノーシス4号)

    弘法大師空海と密教美術

               
ミゲル・ネリ    

イニシエイト空海
 
   今年(1984年)は弘法大師御入定1150年御遠忌ということで、空海
についての本がたくさん出版されたり、映画が作られたりしています。私
は日本語が読めませんので、それらの本を読むことはできませんが、空
海というかたはたいへん尊敬しています。日本の生んだ最高のイニシエ
イトだと思います。
 
  昨年、東京国立博物館で「弘法大師と密教美術」という美術展が開か
れました。たいへん多くの、すはらしいものが集められていて、私はそれ
らを見ることによって、日本にあるノーシス(普遍的な叡智・直観的認識)
を知ることができました。
 
  ノーシスは世界中の古代文明に見られる、人生の秘密を解くための鍵
ですが、それを日本に伝えたのが空海です。もちろん、日本におけるノー
シスはそれだけではなく、古神道の中にもノーシスを見出すことができま
すが、今日はこの密教美術展にそって、空海についてのお話をしたいと
思います。

  ノーシス

 叡智を学びに中国へ
 
  みなさんもよくご存知のように、空海は幼いころからたいへん特別な
人物でした。生まれた時から、すでに意識が目覚めていたからです。人
生の現実を自覚し、目に見えない次元とのコミュニケーションもできまし
た。自然界の精たちと話すことができたのです。

 また、高次の力の存在というものも、よく知っていました。七歳の時、自分が生きるに価する人間かどうかを知
るために、涯から身を投げました。生きるに価しないなら、そのまま死んでしまうだろうが、価するならば命は助か
るだろう。それは真剣な、命をかけた問いかけでした。

  人はなぜ生きるのか、その疑問が空海の心の内に常にどよめいていたのでしょう。十八歳の時に大学に通い
始めましたが、そこでの学問にあきたらず退学、山野に起伏して法を求めたといわれています。そして求聞持聴
明法を成就した後、真実の叡智、ノーシスを学ぶために中国に渡りました。
 
  時代が時代ですから、一口に「中国に渡る」といっても並たいていではありません。遣唐船に乗せてもらうのが
たいへんですし、運よく乗ることができたとしても、無事にたどりつけるかどうかおぼつかない。木で造った帆船で
行くのですから、確率は半々しかないのです。

  ですから中国に行くということは、まず死を覚悟しなけれはなりませんし、二度と日本に帰ってこられない可能
性もある。当時は定期船などありませんでしたから。空海は中国に渡りました。まったく奇跡続きの渡航ですし、
中国に着いてからもふつうでは考えられないようなことが起こりました。もっとも不思議なことは、空海を待ってい
た人物がいたことです。
 
  恵果阿闍梨です。インドより密教を伝えた不空に直接教わった僧・恵果が、自分の持てるすべてを伝えるた
めに空海を待っていたのです。その時、恵果はすでに七十歳、年老いており、しかも病気でした。そして空海に
すべてを伝えた後、ようやく仕事を終えた、とばかりに死んでいくのです。
 
  恵果には多くの弟子がいました。しかしその弟子たちをさしおいて、空海にすべてを伝授するのです。なぜで
しょうか。その謎はいまだに解けていません。空海は三年間しか中国にいませんでした。わずか三年で目的を
達したからです。そして異例といえるほど早く、日本に帰りました。

知識はカなり
 
 空海は多くのことを学んで帰りました。その知識をもとに
して、社会的な改革や都市計画、あるいは芸術的な開発、
もちろん宗教の世界でも大きな仕事を成しとげました。

  自分が身につけた知識を使って、多くの人々を助けたの
です。彼が身につけた知識はまさにそのように、力となる知
識でした。「知識は力なり」とよくいわれますが、まさにそれだ
ったわけです。

  余談になりますが、『第五世代』(TBSブリタニカ)というコ
ンピュータについての本にも、さかんにこの言葉が使われて
います。ただ頭につめこみ、いずれ忘れてしまう知識ではな
く本当にパワフルな役に立つ知識は、いつの時代にも必要
とされている叡智だからです。
 

崖から飛び下りる空海を助ける天女

  ノーシスとはまさにそのような智識です。ですから、この智識を受け取る前と後では、その人に大きな変化が
生じるのです。無知の闇から出て、光である真実の知を知った人間は、もう以前のように闇の中を手さぐりで歩
く必要はなくなります。
 
  しかしこの知識を受け取るには、その人の準備がととのっていなければなりません。そして高次へと飛翔した
いという強い希求がなければなりません。空海は準備がととのっていました。ですから恵果は空海にすべてを教
え、空海はすべてを吸収することができました。
 
  ではこれから具体的にみていくことにしましょう。

弘法大師座像
 
  これは弘法大師座像です。このポジションがいちはんポ
ピュラーですね。右手は力を表わす手ですが、その右手で
        こしょ             ごこしょ
ドルチェ(鈷杵のこと、この場合は五鈷杵)を持ち、ハート、
心臓の側に近付けています。

  すなわち、愛(ハート)と力(右手とドルチェ)を結びつけ
ているのです。ハートはまた重要なチャクラがある部位で
もあります。胸腺のところにあるアナハタ・チャクラで、高等
感情と深い関係があります。
 
  左手には念珠を持っていますが、この念珠の珠の数は
108です。私たちの転生の一サイクルの数と同じです。
 
  このような像の前に立つとき、私たちはあるエネルギー
を感じます。弘法大師というかたの形としてのエネルギー
です。そしてまた忘れてはならないのが、この像について
深く瞑想し、理解するように努めることです。
 
  そうすることによって、私たちの意識を揺り動かすことが
できるのです。それは偶像崇拝なのではありません。そう
ではなく、この形をささえにして自分の中の意識を呼び起こ
すために役立たせる。神秘を理解し発見するためのポイン
トとするわけです。

弘法大師座像

黄金の霊体と性の神秘

  ここにはいくつかの密教的な彫刻があります。 いちばん右にある大日如来像は金色をしています。それが
意味することは、黄金の体を作らなけれはならない、黄金の霊体を作るということです。それが私たちの魂の
寺院となるからです。
 
 ではどのようにして黄金の霊体を作るのかというと、印契がその解答を示しています。この印契はリンガとヨ
ニ、男と女を表わしています。二人で性エネルギー昇華を行ない、黄金の霊体を形成するのです。昔の人たち
は、このような仏像を見ることで、その伝えんとする神秘を理解しました。これらの像は、いわぱ教科書のよう
な役割を果たしていたのです。
 
  頭の形を見ますと、男根に似ています。ちょうど福禄寿のような格好をしています。福禄寿は叡知を表わす神
ですけれども、この頭の形が意味することは、叡知を手にいれるには性エネルギーを脳とハートに昇華しなけれ
ばならないということです。
 
  まったく黒い色をした仏像もあります。この黒という色は神秘を表わしています。右手にドルチェを持ち、左手
にはドルチェに鈴のついたもの(五鈷鈴)を持っていますね。これがやはり男性と女性の結びつきを表わしてい
るのです。

 右に持つ鈴は音を象徴しています。人間が出す音、すなわち声ですが、それはのどと口を通して発してきます。
すなわち私たちの声というものは性腺と密接なつながりを持っています。ですから性エネルギーを消耗しつづけ
る人は、喉頭ガンにかかったりします。
 
  三つ目の像、右手にドルチェを持っていますが、ドルチェから一本の剣が出ています。この剣が示しているの
は昇華された性エネルギーです。ペンタグラムにある剣は意志を表わしていますが同時にまた、剣は戦いをも
表わしています。知識をわがものとして生きるには、外的にも内的にも絶えることのない戦いがあるからです。
それらが剣のシンボルが意味することです。
 
 人生は慢然と生きていて何かつかめるというものではない。すべては戦いによって手に入れるのです。もち
ろん武器をもって殺し合う、あの戦いではありません。すべて自分との戦いです。もっと詳しくいうならば、自分
のエゴとの戦いなのです。
 
  自分自身のトラウマとの戦い、欲求不満との戦い、そして停滞し退廃していく社会とも戦わねばなりません。
自らが弘法大師の境地に到りたいのならば、戦士となる勇気を持たねばならないのです。

千手観音と不動明王

 次にあるのが千手観音、多くの手を持っています。杖を持ってい
ますが、その杖には上昇する蛇がついています。

  そしてもう一方の手にやはり上昇する蛇を持っていますが、こ
れが上の蛇と下の蛇です。後側には光背があります。これがオ
ーラのかたちですね。不動明王には火のオーラが見えます。これ
は魂の火であり、血の火でもあります。

  左手には紐を持っていますが、その紐はよってある。男性ホル
モンと女性ホルモンを表わしています。
 
 古来より「儀式」と呼ばれるものには、ほとんどの場合、縄を使
います。神道にはしめなわというものもありますね。それは男と女
の結びつきによって神々に近づく、すなわち性の神秘を表現して
いるのです。
 
  さて不動明王の持っている紐の一端には丸いものが付いてい
ます。それは「表現できないもの」を表わしています。神に到るた
めに必要なものですが、表現することはできない、それを表わし
ているのです。時がくれば自分でつかむことができるでしよう。
 
 金剛吼菩薩像には、第三の目があります。これは超視覚を表わ
しています。また耳がこのように大きいのは、超聴覚を持っている
という表現です。
 
  これらの神聖な像には何一つ無駄なところはありません。求道
の志を抱いて、注意深くみつめるならば多くのメッセージを受けと
めることができるのです。特に千手観音の持つ蛇に注目して下さ
い。この蛇が何を象徴しているか、しっかりと瞑想して下さい。

↑不動明王像


↓金剛吼菩薩像

   シンボリック
数の象徴的な意味

 
  八大童子立像とあります。この「8」という数にもシンボリックな意味があります。すなわち、無限を表わす数
です。八大童子の他にも、八大菩薩、八大明王、八大龍王など「8」の象徴は多く見られます。弘法大師空海
の段階に達したということは、無限を体現したことです。しかし「8」に達する前段階として「7」を通らなけれはな
りません。

  「7」とは、勝利を表わす数です。この八大童子立像にも「7」の象徴が見られます。頭上に7つの炎があるも
の、また7匹の蛇があるものですね。この「7」をもっと具体的にみていきましょう。この「7」のメッセージは私た
ちは7つの内的な体、霊体を作らなければならないという意味です。それぞれの体が、高次へと上昇するとき
の乗り物になるからです。肉体に三次元での体にすぎません。高次へと上昇するためには、内的な体を作ら
なければならないのです。
 
  多くの像は石の上に坐っています。この石が「哲学者の石」、あるいは「賢者の石」といわれているもので
す。またなかには四角い祭壇に坐っているのもあります。四角は「4」という数字、すなわち生命を表わしてい
ます。生命の上に坐っているのです。それは植物の生命、動物の生命、人間の生命を克服しているという意
味です。
 
  蓮の花に坐っている仏像もあります。蓮の花は水の中から生まれる花ですが、この水が生命の水を意味し
ています。同時に、蓮の花は女性の子宮、女性要素を表わしているものでもあります。そしてまた、平和の花
としても知られています。ですから蓮の花に坐っている仏像は、内的な平和の象徴です。内的な平和は何に
よって得られるのでしょう。それは「エゴの根絶」によってです。


エゴ根絶で内的平和に


  エゴとは欲望のエネルギーです。一つ一つが「私自身」という怪物です。虚栄のエゴ、肉欲のエゴ、怒りの
エゴ、怠惰のエゴ、憎悪のエゴ・・、驚くほどたくさんあるエゴは、その一つ一つが人格をもって、「私が!」「私
が!」と自己主張をしています。私たちを動かす主導権を握ろうと争っているのです。

  そして残念ながら、私たちはまるでエゴの奴隷であるかのような生活を送っているのです。よく足の下に怪
物を踏みつけている像がありますが、それはエゴをこてんぱんにやっつけ、根絶してしまうことを教えています。
そうしなけれは内的な平和を手に入れることはできません。

  エゴを根絶するための戦いは、日常生活の中で内的に行なわれます。別の見かたをすれは、日常生活と
はエコ板絶のためのすばらしい修行の場ともいえるわけです。そしてまた、超常感覚機能をみがくことよりも、
エゴ根絶にまず力をそそがなければならない、ということも言っておきたいと思います。同時進行がもっともよ
いわけですが、エゴ根絶のワークをやらないで、超視覚や超聴覚の開発に力をそそいでも自分のためにはな
りません。

  なぜなら、せっかく開発したその力をエゴが好き勝手に使ってしまうからです。こう理解していただきたいと
思います。それは、まず大切なのが「エゴの根絶」であるということです。優先順位の第一番です。そして性エ
ネルギーを昇華したり、チャクラを開発するためのプラクティスは、その得たエネルギーや能力を「エゴ根絶」に
使うのが目的なのだ、と肝に命じておいて下さい。

  いくら超能力を持ったとしても、エゴをたくさん抱えているうちは、決して高次へ上昇はできません。マインド
を洗浄してエゴを根絶する人は、常に平和の蓮の花の中に坐っているのです。肉体の死を待つ必要はありま
せん。高い次元に入るためには肉体のあるうち修行しなければなりませんが、肉体を持ちながらも高次の存
在となることもできます。

  しかし、肉体がなくなってしまったなら、もうエゴ根絶のワークはできません。肉体のあるうち、すなわち生き
ている間に頑張ってエコをやっつけることが、もっとも大切なのてす。

蛇は性エネルギー

  ドルチェには三鈷や五鈷、またほどこされた彫刻にもいろいろ
なものがあります。このドルチェには二つの矢が見られます。

  この二つが二元性を表わしています。三本のものは三位一体、
トリニティです。そして四本のときは、先ほども申し上げましたよ
うに生命を表わしています。

  また四大要素<炭素・窒素・水素・酸素>、あるいは<土・水・
空気・火>でもあります。生命あるものを形づくる四つの成分とい
ってもいいでしょう。

  「8」は無限を表わす、といいましたが、「8」はまた4と4に分け
られる数でもあります。この場合は物質的生命と精神的生命を
表わすわけです。すなわち、目に見える次元と目に見えない次
元のバランスを意味しています。
 
  物質的な人生だけでは決して無限とはなりません。制限があ
ります。この物質的生命を通して、精神的な、永遠なる生命を生
じなければならないのです。そうしてはじめて無限となるわけで
す。 

エゴを踏みつける降三世明王

  蛇はどのような形であろうとも、性エネルギーを象徴しています。そしておもしろいことに、最近発見された遺伝
子DNAも蛇のようにくねって動きます。性エネルギーとはすなわち生命エネルギーですから、この共通点は古代
人の叡智のすばらしさの証だといってもいいでしょう。
 
  性エネルギーは中性のエネルギーです。ですからポジティブな面とネガティブな面を持っていて、蛇の表現に
その両方が見られます。蛇か上昇する時、上の水となる。性エネルギーを昇華して、イダとピンガラの二つの(不
可視の)管を通って上昇させ、脳とハートにそのエネルギーを導くということです。
 
  反対に昇華しないのならば、そのエネルギーは尾骨から下に降りる蛇となる。しっぽのようになっていて、こ
の蛇をネフティスといいます。これも性エネルギーに変わりはありませんが、私たちを進化させる力は持ちませ
ん。破壊的な死のエネルギーであり、私たちの意識を眠りこけさせ、催眠状態で生きるようにさせてしまいます。

  人生で大切なことは、この大きなエネルギーである性エネルギーを昇華して上昇させ、勝利のしるしである七
つの蛇を得ることです。
  
         ノーシス
古代遺跡は叡智の表現
 
  原宿のラフォーレで行なわれたチベットの蔓荼羅展では、十二の蛇の像かありましたね。「12」という数は、
黄道帯の十二宮のことです。七匹の蛇が七つの内的な体を表わし、同時に勝利を意味するように、十二匹の
蛇は黄道帯のすべての叡知を象徴しています。

 黄道帯のすべての叡知とはすなわち、銀河系すべてをカバーする叡知のことです。キリスト教の聖母マリア
は、エジプトのイシスに相当する存在ですが、蛇の代わりに十二の星をつけています。このように世界中の文
明に多くの共通点を見出すことができますが、それはいうまでもなく、同じメッセージをその種族や土地柄に合
わせて表現しているためです。

  仏教や神道でも同じです。摩擦が起こるのは、それらが私たちに伝えようとしていることを掘りさげて深く考
えないからです。私はいつも、弘法大師にもキリストにも、そしてエジプトの神オシリスにも同じように祈りを捧
げます。何の摩擦もありません。

  それが叡智によって無知の聞から出るということの一つです。すべての宗教を理解できたからです。また宗
教だけではなく、科学を生み、芸術を生むということもできます。弘法大師空海はそれを成し遂げたかたですね。
彼が中国から持ち帰ったのは密教だけではありません。土木建築の知識や蔓荼羅をはじめとする芸術も持ち
帰っている。

  すばらしい芸術は私たちの感情の開発にたいへん役に立ちます。感情には、高いものと低いものがあります。
高いものとは、胸がしめつけられるような感動、といえば分かりいいでしようか。聖なるものへの想いとか、たと
えばマザー・テレサの行なっていることをみて感動した感情とか、あるいは野に咲く可隣な一輪の花を見て思わ
ず涙がこぼれてしまった、とか、そういう感情です。
 
  反対に低い感情とは、異性に対して感じる情欲とか、人をうらやんだりねたんだりとか、何もやりたくないと思
ったり悲観的になったりするような感情です。感情を慢然と流れっぱなしにしておくと、低い感情に引きずられが
ちになります。そうならないためには、自分で意識的に、高等感情を開発する努力をしなければならないわけで
す。感情とは放りっぱなしにしておくものではなく、開発し、高めていくものだからです。

花はチャクラ
 
 次に火の神と水の神があります。火の神と水の神の結びつ
きが両方の三角の星、ソロモンの星(ヘクサグラム)になりま
す。また生命を生じさせるのがこの二つの要素です。私たち
の細胞は七〇パーセントの水分と三〇パーセントのエネル
ギーを持っていますが、これが水と火です。
 
 またよく仏像の前に花を捧げますが、それはチャクラを象徴
しています。開いた花はチャクラの形と似ていますし、その意
味するところは、内的な感覚機能を開花させ、それを高次の
存在に捧げるということです。
 
 高次に捧げるとはどういうことかというと、その超常感覚機
能を人々のために使うということです。なぜなら、高次の存在
は人間を助ける存在だからです。花(チャクラ)は神々に捧げら
れねばならないものです。

  自分の利益のために使うのではなく、神々のために使うた
めに花(チャクラ)は開花するのです。

軍茶利明王

 月にうさぎを乗せて、捧げている像がありますね。月は肥沃を意味していますし、うさぎはたくさんの子供を産
むということで、やはり肥沃と関係しています。多くの古代文明に月とうさぎを関連づけた表現が見られます。ア
ステカ文明にこういう神話が残っています。
 
  昔、月も太陽のように光輝いていた。しかし月と太陽が同じ極にあると、生命を生じることができないので、神
々はうさぎを一匹連れてきて、月にめがけて投げつけた。それ以来、月の中にはうさぎの影が残った。そしてそ
の影が月の光をさえぎったので、現在ある月と太陽の関係ができた。こうして二つの対極ができたので、新しい
生命が生まれた。日本でも、月の中でうさぎが餅つきをしているといわれますね。よく似ていると思いませんか。

  さて、一つの彫刻を見るにしても、絵画を見るにしても、深い瞑想を伴って浸透していくならば、その表わす真
実を理解することができます。そしてまた、同じものを見ていても、毎日のように異なったメッセージを受け取るこ
ともできる。意識が揺り動かされ、その動きによって私たちの内部に情動を起こさせるからです。さらに、今お話
している智識が与えられると、その過程がもっと早く行なわれます。

宇宙の叡智

 この大日金輪像は緑色を全体のトーンとしています。緑色
は魂の色です。そして健康の色、真実を表わす色です。

  これは真実の神(仏)です。エジプトにも頭上から一本の
緑色の羽が出ている神がいますけれども、同じ表現ですね。
真実の女神です。

 老人の顔をした表現もこういったものによく見られますが、
智恵を象徴しています。しかし現実には、年をとった人がす
べて賢者となるとは限りません。そして智恵を持っていない
老人は、ただ年をとっただけです。

  みなさんには尊敬すべき長老になっていただきたいと思
います。八十歳になったみなさんのところに、多くの若い人
達が智恵を求めて集まってくるような、そんな存在になって
下さい。
 
 私がお話ししている智識や、みなさんといっしょに実践して
いる儀式やプラクティスなどは、この宇宙の叡智です。この
叡智で自然界を克服し、コントロールすることができます。
 
  この大日如来は火で囲まれていますが、彼は自然界をコ
ントロ−ルできますから、この火は彼を焼くことはありません。
彼自身も命の火を燃やしているからです。
 
  閻魔天像は左手に杖を持ち、その杖の先端に三日月、そ
の上に太陽の顔がのっかっています。オーラにも太陽が表
現されています。これは太陽が月を克服しているといの意味
です。

  しかし私たちが性エネルギー昇華を行なわないのならば、
月人間であり、太陽よりも勝ってしまう。月人間であり、太陽
人間ではない。私たちの人生の目的は太陽人間になるとい
うことです。
 
  太陽人間とは、エコ根絶を成しとげ、性エネルギーを昇華し
て、黄金の霊体を完成した人間のことにほかなりません。

大日金輪像

智識は人生の基礎
 
  空海が魂の道場として造った高野山では、それぞれの建物が、それぞれ一定の知識に向けられています。
この時代の僧院ではあらゆる分野のことが教えられました。宗教や哲学はもちろんですが、医学や芸術、瞑想
や武芸なども学び、ユニバーサルな智識を身につけていったのです。そして僧院から出るときには、一人の賢
者となっていました。
 
  これらの建物も気学などによってエネルギーの流通を考え、建てられたものです。自然界にあるエネルギー
を生かす設計で建てられています。自然界にすでに存在している全てのエネルギーを生かすことができるのは、
そのエネルギーがあることを知っている人のみです。その知識を持っていれば、それは即、力となって、私たち
を助けるのです。
 
  人間は自然界の王となる可能性を持って作られています。ただやみくもに「自然」に対立し、支配しようとする
のではなく、自然界のエネルギーを生かしてコントロ−ルするということです。しかしその前に、まず自分の内に
ある感情を克服しなければなりません。自分をコントロールできないで、自然界をコントロールしようとしても無
理な話ですから。
 
  自分の日常生活を振り返ってみて下さい。パチンコや麻雀などの趣味の奴隷になっていませんか。何にでも
すぐ怒り、心の中は劣等感で満ちていませんか。人に何か言われるとすぐに動揺し、悲観的な心境に陥ったりし
ませんか。そのように自分をコントロールできずして、どうして自然をコントロールできるでしょうか。
 
  智識がどんなに重要なものであるかにも注目してください。多くの人々が列をなして「密教美術展」の展示を
見ていました。でもいったい何を理解できたでしょう。智識を持っていないからです。ユニバーサルな智識です。
智識なくして、人間はどこにも到ることはできません。でも智識を持っていれば、そこで展示されていたものから
バイブレーションを吸収して、メッセージを受け取ることができるのです。

  この智識、すなわちノーシスは水を吸収するためのスポンジのようなものです。スポンジがなけれは水を吸
収することはできません。


専門家には限界がある

 弘堵大師が入定されて後、時がたつにつれて、これらの智識は分岐され、大学なら大学、武芸ならは武芸
という風に、専門的に分かれていきました。一つの場所でユニバーサルな智識をすべて学べるのではなく、す
べてを得るためにはいろいろ場所に行かねばならなくなったわけです。
 
  現代にいたってはさらに分岐が進み、専門化か進み、それらがもとは一つであったなどとは想像もつかない
くらいです。また専門化してしまったため、全体をながめるグローバルな限も失なわれました。ですからバランス
を保つことができないのです。たとえは歴史が専門だという人に物理の質問をすると、それは私の専門ではな
いから、と答えるでしよう。そのように片寄ってしまうと限界ができる。けれども私たちはすべてに関して基礎的
なものを身につける必要があります。

 そして目の前にあるものを理解し、メッセージを受け取っていくことで、人生の秘密の多くを理解することができ
るのです。日本に生まれ、日本に育って、弘法大師のものを見ていながら、まったくそのメッセーシが理解できな
いとはなんと惜しいことでしょう。智識を力とし、鍵として、進化していくための道標を見つけてください。

ドルチェは性の象徴

  この二つの蔓荼羅、金剛界里荼羅と胎蔵界蔓荼羅は、
以前、月刊『ムー』が付録としてポスターにしたものです。
お持ちのかたも多いことでしょう。しかしオリジナルのバイ
ブレーションは、印刷したものとは比べものになりません。
たいへんすばらしいものです。

  またこれだけ多くの仏像や絵画、法具などを一同に集め
て見られるというものも、めったにないことです。すはらしい
エネルギーが感じられますね。密教の法具が展示されてい
ます。エソテリック武術と呼はれるものです。

  最も重要なのはドルチェと鈴です。ドルチェは性を象徴す
るシンボルです。鈴については先ほど説明したとおりです。
鈴の中には桃の花の飾りがついているのがありますけれと
も、これは女陰を象徴しています。また桃はバラ科の植物で
すから、バラの象徴、すなわち愛をも表わしています。

三鈷杵と五鈷鈴

 その愛とは情欲的な愛ではなく、献身的な愛です。どんな犠牲をもいとわない崇高な愛なのです。十字をか
たちどったドルチェもあります。生命の交差を意味し、ルーン文字のギボールに相当します。十字は二つのカの
交差による動きですから、生命が動いていることを表現しており、パワフルなシンボルです。
 
  たくさんのドルチェが展示されています。これらが日本に伝えられてから、何世紀という時間がたっています。
それにもかかわらず、その本当の意味を知っている人が何人いるでしょう。金銅舎利塔の前にあるこれもリン
ガとヨニです。男女の結合を表わしています。屋根の上には九輪、五重塔などにも見られるものです。「9」とは
完全ある人間を表わす数字ですから、この塔のメッセージは、完全なる人間になるためにはリンガとヨニを使っ
ての働きが必要だということです。

  弘法大師のもっとも奥深い神秘は、この「性の神秘」です。ノーシスのベースとなるものも「性の神秘」です。
それと「心理の浄化」、この二つが大切な鍵です。弘法大師が日本にノーシスを伝えたという事実が、お分かり
いただけたでしょうか。
 
  この塔はまた、人間の身体を表わしています。塔や寺院は、しばしば人間の体の象徴として表わされますが、
この塔は魂の寺院です。完全なる人間は黄金の魂の寺院を持っています。


四次元への扉−蔓荼羅

 
  この像には動物の象徴が見られます。そのかたちに注目して下さい。二匹の蛇と二羽の鳥です。蛇はいうま
でもなく性エネルギーの象徴です。鳥は精霊。この二つが結び合って、無限の形をなしています。ついているい
くつかの丸い輪は、グレードを表わしています。
 
  杖はパワーの象徴です。同時に背骨も表わしていて、性エネルギーが背骨にそって脳とハートに導かれるこ
とと関連があります。この象では二匹の蛇、また二羽の鳥の結びつきが一つの顔を形づくっていますね。次の蔓
荼羅は、空海が持ち帰った蔓荼羅をお手本として、平清盛が描かせたものです。清盛は自分の頭の血を絞り、
それで彩色させたという。血は魂の乗物であり、犠牲・献身を表わしています。ですから血を使って描いた蔓荼
羅は、たいへんなエネルギーを持っています。そして様々なバイブレーションを共振させるものです。
 
  同様に、血が流された場所、事故があった所や人が殺されて血が流された場所には特別のバイブレーション
があります。幽霊がでたり、ふつうの所では起こり得ない怪奇現象が見られるのは、その共振現象のためです。
さて、蔓荼羅は宇宙の一つの表現です。そのため蔓荼羅の前に坐って瞑想すると、蔓荼羅が四次元に到るた
めの扉のような役目をします。そして神聖なかたちが描かれているので、そのシンボルを通して私たちに多くの
ものが浸透してきます。それによって情報を得て、高次への道のしるペとすることができるのです。
 
  この絵には八つの仏像が輪になって描かれています。「8」は無限ですね、そして中央には大日如来が見ら
れます。これによって「9」、完全なる人間を表わす数となります。人生の目的は中央の絵が表現しているような
人間と成ることです。すなわち完全なる人間、太陽人間です。人生で重要なのは仕事ではありません。日本人
の多くの人は、仕事が蔓荼羅の中心にきているような生活をしていますが、人生の目的は仕事ではない。

 定年退職した男性がどことなくわびしく見えるのは、仕事が人生の目的であるかのような生活を長年送ってき
ためです。退職することで人生の目的を失なってしまい、そこでやっと自分の現実に気づくのです。仕事も結婚
生活、子育ても、また才能や能力、病気など、そういった自分に与えられた生活のすべては、自分が完全なる
人間へと到るための手段なのだということです。修行の道程であるといいかえることもできます。

 人間一人一人の環境や容姿、健康状態が異なるのは、やらなければならない修行が異なるためです。しか
し多くの人々はこのことに気づいていないようです。いちばん下に寺院の入口の二本の柱が見えます。ジャキ
ンとボアスを表わす柱です。そして中央上方には、三位一体を表わす三角形も見られます。この三角の表現は、
エジプトの神秘の中にも表わされています。

 またアステカ文明か遺したアスティックカレンダーも、こうした蔓荼羅と同じ意味あいを持つものです。これら
は、すべての文明とすべての世代を通じて伝えられる叡智です。

色の影響とパワー

 色について少しお話ししましよう。色はそれぞれの振動数
によって違いがあるものです。

 タロットカードも美しい色で彩色されていますが、それらの
色は意味を持ち、私たちに伝えるべき何かを表現していま
す。ラフォーレでもたいへん色彩豊かな蔓茶羅が展示され
ていましたが、そのバイブレーションによって多くの人が目
まいを起こしたほどでした。

  色とは私たちにそういった影響を及ぼすとともに、パワ
ーをも与えるものです。曼荼羅の中では、特に赤が主体
となっていることに注目して下さい。赤は血の色、愛の色、
力の色です。

  しかし赤がにごった時には、それは情欲の赤となります。
それぞれの色は二元的な意味を持つからです。さて次の
仏像は土台が象でできています。白い象に乗った普賢延
命像です。
 
  この白い象はイントでもヒンズー教でも重要な神の一つ
です。象は何を象徴しているでしようか。力です。動物で表
される象徴の意味は、その動物のもっともきわだった特徴
によるものです。象以上に力の強い動物はいませんね。
 
 ですからパワーを象徴しているのです。では白とは何を
意味する色でしようか。純粋であり、浄化されたものを意
味しています。お釈迦さまが誕生されるときにも、母であ
る王妃は白い象によっ 受胎を知らされました。ここで白
い象を土台としていることは、いつも白い象に支えられて
いる、魂が純粋な力の上にあることを意味しています。

大威徳明王像

聖なる母クングリーニ

  さてヒンズー教のクンダリーニの密教的な表現が見られます。クンダリーニは王としてすべてを呑みこむ炎と
して表わされています。すなわち、私たちに巣喰うエゴを呑みこんでいるのです。心理的ワークは聖なる母クン
ダリーニに祈り、助けを乞い願って行なうものですが、そうすることでクンダリーニがエゴを呑みこんでくれます。
 
  私たちの努力と聖なる母の援助、そこにエネルギーの流通があり、それでエゴを根絶していくわけです。私
たちは一人だけでは決してエゴを根絶することはできません。必ずクンダリーニ、聖なる母の助けを必要として
います。神道でお祀りしている弁財天が聖なる母にあたります。観音さまも同じです。どちらもやさしさを持った
母親のような存在です。私たちが真剣にエゴ根絶のワークにとり組むとき、彼女たちは大きな愛をもって私た
ちを包み、その孤独な長い行を助けてくれます。
 
  私たちが性エネルギー昇華を行ない、そのエネルギーをエゴ根絶に向ける努力をするとき、この聖なる母を、
炎に包まれ多くの蛇に囲まれた聖なる母を想い起こしてください。そして祈ってください。私たちはその行を決し
て一人で行なっているのではありません。常に聖なる母が私たちとともにいることを忘れないで下さい。私たち
が妬みや虚栄や肉欲や……、多くのエゴたちと戦っているとき、聖なる母は見守っているのです。援助を願うな
らば、援助が与えられるのです。私たちがしなければならないことは、援助を願うこと、それだけです。

聖なる母への祈リ

  ラーミーオー、聖なる母クンダリーニ   私のエゴを呑みこんでください  エゴから解放してください
  エゴをあなたの火で燃やしてください  聖なる母、私に自由を与えてください
  テトラグラマトンの名において  そうありますように

どくろはエゴの死

  死を意味するどくろが描かれている大威徳明王像です。
エゴの死を象徴したものです。エゴを殺すものはエゴから
解放されます。
 
  このようなイメージを、自分の目で見ることは、重要で
す。見ることによって、意識の奥底にまで深く焼きつけら
れるからです。彼女は、私たちがエゴ根絶のワークを行
なうときには、ちようどエジプトの女神イシスと同じような
役割を果たします。

  すなわち私たちを助けるわけです。しかし、私たちが
生きている間にその努力をしないのならば、私たちを地
獄で呑みこんでしまう蛇となります。それがヒンズー教で
いう女神カリです。
 
 彼女は私たちの母です。私たちを愛しています。です
から私たちが自由を得るために援助を惜しみません。し
かしそれは、私たちが努力している限りにおいてです。
私たちが努力しないなら、死後、彼女は私たちを呑みこ
んでしまう。

  この絵を見る人たちは、これは何千年も前の絵であり、
その時代の人たちは原始的にそう考えていたのだろう、
と思うことでしよう。けれども死んだ後、これが本当のこと
を描いていたことがわかるでしょう。

普賢延命像

 でももう、その時には遅いのです。生きている間に、メッセージを受けとって下さい。そして物事をしっかりと理
解していくことが、大切なのです。生きているとき、肉体があるうちはすべてが可能です。高次の援助を願って、
自らも努力するとき、何一つ不可能なことはありません。
 
 そしてまた、この叡智ノーシスのなんと重要なことでしょうか。この人生の鍵がなければ、ここに展示して
あるものは単なる古美術でしかありません。美術品としての出来や作られた時代を云々したところで、いったい
何を学びとることができるでしよう。インテレクトにゴミのような知識が入るだけです。芸術とはメッセージを持つ
ものです。それは生きる上で役立つ、実践的なメッセージです。

  それを受けとって、使うことができる、力となる智識ですね。それを充分学んで、浸透させていただきたいと
思います。私たちに死が訪れた時、今のこの瞬間をもう一度見ることになります。そのときに後悔しても、もう
遅いのですから、今学んだことをいかして生きていってください。そしてお互い、高次元においてまたお会いし
たいものですね。そのときには弘法大師空海にも会って、あいさつすることができるでしょう。
            

 (参考文献/弘法大師と密教美術)