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セ ト の 神 秘(機関誌ノーシス6号より)
内的平和と精神的進化のプロセス
肉体とサイキス
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日本では年末になったら大掃除をして家中をきれいにするという習慣がある。一年の垢をはらい落とすというすばらしい習慣である。それに見習って私達自身にも行うべきことがある。それは私たちのサイキス〜心理を洗浄するということだ。
私たちのサイキスがいつも汚染されたままであれは、家中大掃除したところで新年の準備をしたことにはならない。新しい輝きに満ちた年を迎えるにあたって、私たちは内的な家であるサイキス(心理)を洗浄することから始めよう。そういう努力がないならは、何度新しい年を迎えようと、そうして一生の終わりが近くなったとしても、
私たちの心理とマインドは汚ないままである。 |
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私たちのマインドやサイキスは、掃除をする対象としてはむずかしいものである。なぜなら目に見えないから
だ。四次元に属しているため、三次元のものである肉眼では見えない。だからどんな風に汚れているのか掴む
ことが困難なのである。
私たちは目に見える肉体に対しては大いに世話をするし、注意もする。少し太った、少しやせた、シワができ
た、白髪がふえた、そんなことにはとてもよく気がついて、対策もいろいろ考える。しかし見ることのできないサ
イキスについては何の注意も払わない。
なすがままに流され、心は眠ったような状態で年をとっていく。そのままいくと、肉体が終わりを迎えたとき、
サイキスはまったく停滞したままということもありうる。それではいったい何のために生まれてきたのかわからな
い。
肉体を持つことは、修行のためのチャンスを与えられたということである。進化をするための乗り物が肉体で
あり、人生の試練は進化をうながすためのバネなのである。肉体よりもサイキスの浄化の方に焦点が絞られて
しかるべきなのだが、今の時代はあまりにも物質主義に片寄りすぎているので、人々も自分の物質的部分=
肉体のほうに重きをおいている。いやそれどころか肉体がすべてといった感さえある。
肉体はいずれ死ぬものである。生きている間は人間は一人一人違う肉体を持っている。年齢が違い、スタイ
ルも違い、容貌も異なる。しかし肉体が死ぬと、それは腐敗の過程を始める。王様であろうが、その国で最も貧
しい人であろうが、肉体が死ぬとまったく同じ状態になる。死にとってその肉体がとんな地位にあろうと金持ちで
あろうが貧乏人であろうが関係ないからだ。肉体とはそれだけのものにすきない。腐敗し、土に戻って地球の
有機的栄養となるものなのだ。
ロボット的人問とエゴ
しかし私たちは肉体だけの存在ではない。肉体とサイキス(霊)と魂から成る存在である。だが多くの人々は
魂の存在を忘れている。そしてサイキスもロボットのようになっている。活動しているのは肉体だけ、肉体がロ
ボットとして機械的な行動をしているだけである。心は眠っている。意識も眠っている。多くの人々は、自分が何
をやっているかさえ自覚しないで、機械的に生活しているのだ。
朝、起きる。仕事に行く。人と付合う毎日同じようなバターンで繰り返される生活ならば、それはロボットが代
行している。そしてそのようなとき、私たちのサイキスを占領しているのはエゴである。エゴとは私たちが持って
いるもろもろの欠点のことだが、これが実のところもう一人の自分といっていいくらいの力を持っているのである。
心が目覚めていなくて、ぼんやり眠っているような生活をしていながら、私たちが惹きつけられるのは何だろ
うか。性欲であり食欲であり物欲であり、怠惰で悲観的な思考であり、退廃的なものへの興昧である。そこに
は建設なものは何一つとしてない。
何か問題にぶつかるとすぐに悲観的なものの見かたをする。自分はどうせだめなんだ、といって、安穏なる
怠惰の中に逃げこんでしまう。そのくせ自尊心だけはやたらと強くて、人の苦言は全く受けいれない。これは
エゴが肥大化してしまい、魂をがんじがらめにしているからである。エゴは魂を決して自由にすまいとあらゆる
手段を使う。意識を何らかのかたちで目覚めさせないかきり、魂は進化の機会を与えられない。
しかし肉体の生命には限界がある。サイキスと魂は時間に拘束されないが、残念なことに肉体という乗物
がなけれは修行して進化することができない。だからこそ時間を無駄にせず、肉体のあるうちに目覚めた意
識をもって意識的努力をなさねばならないのだ。そして私たち全員、そうすることが可能である。なぜなら、こ
の世に生まれる目的がそれなのだから。魂の進化なのである。
退廃に陥り悲観的にものを見たところで何が得られるだろうか。行きつく先に何が見えるか。何も見えない
だろう。それは間違った道である。せっかく授かった肉体をいかしたいなら、常に建設的に、常に光を求めて、
常に楽観的にものを見て努力していく態度で生きることだ。そしていつもエゴに対して注意を払っておかなけれ
ばならない。エコにだまされないためにである。
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決して油断をしてはいけない。エゴはだますのがうまいペテン師である。
建設的な思考をバカにし、真面目な人生をあざわらい、努力することに冷笑
をあびせかける。人生は虚無だ、と何もしない理由をみつけて怠惰をきめこ
む。何かをしているときそんなささやきが自分の内にきこえてきたら、耳をそ
むけるのではなく、そのことばを発するエゴを掴えてやっつけることだ。
言いなりになるならエゴに栄養を与えることになってエゴは肥え太るが、い
うことをきかないでいればエゴはやせ細る。一回一回そういう努力をつつけ
ることで、エゴは根絶できるのである。
さてもう少していねいに、周辺部分からセトの神秘をあばき、進化の方法
を探っていくことにしよう。
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肥大化した心理的我(エゴ)
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マインドの退屈しのぎ
霊に属するものにマインドがある。マインドとはすべてを記憶するものである。100%バーセント受け身であ
り判断も選別もせず、自分の周囲に起こることすべてを記録する。そして一瞬も休まずに活動しているものだ。
肉体が眠っているときには、アストラル体と一緒に活動している。覚えていようがいまいが、マインドはすべて
それらを記録しているのである。
朝になってマインドは肉体に戻ってくるが、サイキスはロボットの中に押しこめられているので、それが原因
となってパチンコに行ったり、やたらとタバコを吸ったり、誰かれかまわず電話をかけたりする。もちろん仕事が
ある人は仕事に、学校がある人は学校へと行く。マインドは心理的活動を常に必要としていて、マインドに記録
されたものがロボットの動きを決めるのである。サイキスがロボットの中におしこめられているときは、マイント
の記録に無意識に流されて行動していくことになる。
日本人はたいへん長時間働くが、それは必ずしも仕事が好きだから働くとは限らない。もちろんそういう人も
いるだろうが、実際問題としては、自分のマインドを退屈させないために働いている人が多いのではないかと
思う。仕事を離れたら何をしていいかわからないから、働くのである。同僚とお酒を飲みに行くのにしても、マイ
ンドを酔っ払わせることで退屈しのきができるからそうするのだ。
そうすれば家に帰ってからはただ寝るだけでよいし、翌日になれば仕事のために起きるだけでよい。そうや
って一日をすごせば、自分の面倒を見ないでロボットに預けたままにしておける。進化のための努力をしたくな
い人はそうした日々をすごそうとするのである。
しかし進化しなければ退化していくのみである。中間はありえない。進化のための努力はしないけれども、そ
のかわりに悪いこともしなければいいだろうと思われるかもしれないが、それは違う。停滞は退化にほかならな
い。
真理を求めて本を探す人々の中には、魂の欲求にしたがってそうしているのだと思う。常に進化を希求する
魂がサイキスを促し、サイキスが肉体を促して、そのような本を手にいれ、そして読んでいるのだろう。決して
手に入りやすい本ではないことも多いが、入手までにある程度の努力が必要だと思う。そこまでの経過を魂・
心理・肉体の三つの立場から観察してみれば、これまで述べたことはご理解いただけると思う。
すなわち心理とは中性のものであり、魂と肉体の中間にあって媒体のような役割をしている。そこで私たち
がなさねばならないことは、心理をエゴにコントロールさせないということである。そのために自己観察が必要
となるのである。エゴに(往々にして)占領されている心理を観察し、エゴに勝っていくためにエゴをまず捕える。
そして一つずつやっつけていくのである。
私たちはすでに多くのエゴを抱えこんでおり、人によってどのユゴが強いか弱いかが異なる。自分で自分を
観察し、どのエゴがいちばん強いかを調べて、まずいちはん強いものからやっつけていくのだ。これは戦いであ
る。他人に任せることのできない、自分自身の戦いなのである。
したがって進化のための第一ステップとしていえることが、自分を見ている自分を持つということだ。常に自
分を観察し、一瞬たりとも自分のことを忘れないということは、意識の目覚めの第一段階である。しかしその見
ている自分は、冷静であり、エゴにまるめこまれない自分でなければならない。
3%の意識の目覚め
私たちが母親の胎内からこの世に出てきたときには、三パーセントの意識が目覚めている。それがだいた
い心理的自己観察を行なっている時と同じくらいの目覚め方である。そして子どもは三パーセントの目覚めが
だいたい七歳くらいまで続く。だから子どもたちは大人に比へてずっと注意深いし、物覚えもよい。
子ともたちを少し観察してみよう。そうすることで、私たちが自己観察しているときの状態を知ることができる
から。子ともたちは常にすべてを見ている。だれがとんな服装をしているか、何をしゃべっているか、大人なら
五分もしないうちに忘れてしまうこと、否、話してる間も相手について気づいていないことでも、子どもたちはよ
く見ているし、覚えている。また習得能力も大人より優れていて、わずか一年ほどで自分の囲りにあるものの
名称をすべて覚え、同時に言語の基礎的な部分も習得する。
二歳から五歳までの間には言葉・行動ともに日常生活には不自由しないものを身に付ける。もしその間に他
国に行くことがあれば、二カ国語をものにすることもできる。子ともの内にはいつも疑問符がたくさんあって、な
ぜだろう、どうしてだろうとつぶやいている。そしてそれによって望むものを(疑問に対する答を)見つけるので
ある。
だがそんな子どもたちが成長し、大人に近づいていくにつれて、三パーセントの意識の目覚めが眠りこけ始
める。そしてロボットの状態というのは、わずか一パーセントの目覚めしかない。この状態というのは、ほんの
瞬間だけ私たちがどこにいるのかという実態を自覚できるというだけにすぎない。
それはこんな例でお分かりいただけるだろう。
私が街を歩いているとき、私に向かってくる人々は私のことを見ていない。しかし私がわざとその人の目の
前に立てば、そこではじめて私を見る。そして私が外国人であることに気づくと、何らかの反応をする。この反
応をした瞬間に一パーセントの意識を手に入れたということができる。ロボットであることをやめて、一パーセン
トだけ意識が目覚めたのだ。がしかし、通りすぎてしまうと、せっかくの一パーセントの意識はふたたび深い眠
りの中に入り、ロボットの状態に戻る。
ロボットの状態というのは、自分を人に預けたような状態であるから、他の人のすることを真似てしまう。個
別の意識を持たないでいる状態なのだ。動物界であれば、それでよい。動物たちは集団的な霊を持っている
からだ。しかし私たちは人間である。私たちの中には魂が宿っている。神聖なる存在であり、永遠の存在であ
る魂が宿っているのである。(勿論、動物・植物・鉱物にも魂は存在する)
例えば、犬を一匹飼っているとしよう。シェパードで羊の番などもするたいへん賢い犬である。その犬を飼い
はじめてしばらくして、羊番の訓練を覚えさせるためにトレーニングに行かせた。そのトレーニングセンターで
は、羊たちが迷わないためには犬は何をしなければならないかを教える。トレーニングの期間がおわって、私
はセンターまで迎えに行ったのだが、そのとき訓練にあたったトレーナーがこんな話をしてくれた。
「羊飼いがいなくて、犬が一人でいるときに迷った羊を発見するとどうするか」ということである。犬は通常飼
い主の命に従って行動するものである。その他の行動は本能と集団霊に基づいたものだ。しかしたとえば日
暮れの草原でたった一頭迷っている羊を発見したとき、犬はいちいち飼い主を呼びに行くのではなく、自分の
意志と判断で迷った羊を無事に導いて連れて帰る。自分で決心して行動するわけである。
このことが何を意味しているかというと、犬や猫、馬なとは個別の霊に近くなっているということだ。自分の意
識を持って行動するのである。これは盲導犬にもあてはまることである。犠牲と献身の生涯をおくるすばらしい
犬である。
しかし私は、たいへん残念なことに、多くの人間の中には私の犬よりもひどい状態の人々がいることを知って
いる。完全なロボットになってしまって、一パーセントの意識すら自分のものとしていない人々である。それは
人間としてもっとも恥ずべきことだ。
動物たちはポルノグラフィーを見て退廃するということはしない。日常の行動が退廃していくこともない。それ
は動物本能をもって行動するからである。私たち人間も動物本能は持っている。しかし私たちはそれさえ使う
ことをせず、停滞させてしまっている。
たとえばタバコを吸いすぎる人は臭覚を使えなくしているし、アルコールをよく飲む人は脳細胞を破壊してき
ている。動物的なカンや敏捷性も失いつつある。
魂からのメッセージ
しかし私たちは動物的本能によってのみ行動を決めていたのではない。私たちにさずけられているのは直
観である。動物的本能は肉体が生きのぴるために役立つものだが、直観はそれ以上のものである。これは魂
からのメッセージなのである。
ハートに存在する聖なる父(魂)からのメッセージ、これが直観である。これによって私たちは進化のための
道を指し示されるのだ。何をすればいいか、どう生きていけばいいかを莫然とではなく具体的に、はっきりこう
だと直観は指し示す。それを注意深く聞きとることが大切なのだ。
何か問題を抱えたり悩んだりするとき、人に相談するより前に、自分自身の魂にたずねるのだ。必ず答は得
られる。注意深くしていれば、自分の行動をはっきりと指し示す魂の声、高次からの答を聞くことができる。常
日ごろから直観を開発し、高次の存在とのコミュヶーションを欠かさず行なっていれば、どんなにむずかしく思
える問題も、おどろくほど簡単に解決してしまう。
しかしその時注意しなければならないことは、常に判断基準を<進化>におくということである。自分の欲望、
ありていにいえばエゴの望みをかなえるために、高次の存在は決して動きはしない。神々は私たちが進化す
るためにはどんな援助も惜しまないが、欲望を単純にかなえることはしない。なぜならそれはかえって進化の
さまたげになるからである。
神々は召使いではないし魔法使いでもない。望みをかなえてくれる存在ではなく、進化を助けるために後押
しし、引きあげてくれる存在なのである。そこのところをカン違いしないよう、注意してほしいと思う。私達が自
分の望みについて自己観察するなら、そんな間違いはしなくてすむ筈である。
月日がたち、死に臨んだ私たちが、自分の人生において何をしたかを振り返るときに、動物が持っている意
識さえも開発していない自分に気づいたときの恥ずかしさが想像できるだろうか。生まれたとき持っていた三
パーセントの意識の目覚めは、五歳くらいまで続く。そして序々に失なわれていき、七歳くらいになるとほとん
どなくなってしまう。
しかしそれからが本当の勝負である。三パーセントを維持し、拡大していくことはもちろん充分可能なことだか
らだ。それが先に述へた<自己観察>という方法である。エゴを常に監視しつづけるのである。
エゴは醜い、ずるくて汚なくて、目をそむけたくなることもあるだろう。しかしそのとき、一歩退いて冷静になり、
目をそむけたがっている自分をも観察するのである。そうすれは、それがエゴと自分自身を同一視した結果だ
と分かるだろう。
忘れてはならないのは、自分は魂であるということである。エゴも肉体もサイキスも自分自身ではない。自
分は魂である。自分は進化するために降りきたった魂なのである。それを決して決して忘れてはならない。
エゴも肉体もサイキスも、この魂がより飛躍し、進歩をとげるために、神々が用意してくださった試練なのであ
る。それを忘れてはならない。
神々は完壁な存在である。すべてを考え見通して、その魂の進化に必要な試練を用意しているのだ。だか
らあなたの人生において、乗り越えられぬ障害は何もないし、進化のために望んでかなえられぬ望みもない。
すべて可能である。あなたがもしも今、何か壁にぶつかって悩んでいるのならば、そして解決方法を自分で見
つけることができないのならば、右手をハートにあてて神に祈ればよいのである。
そこは直観のチャクラがあり、聖なる父がおはすところである。答は直観という形をとって、その日のうちに
与えられる筈である。望みはその日のうちにかなえられる筈である。その多くは望みを実現するための方法
を指し示すというかたちで。神々はつねにあなたとともにあり、援助しようと待ちうけてくださっているのだ。あ
なたがすることは神々に手をさしのべて、援助を願うこと、それだけである。
では意識の目覚めについてもう少し詳しく説明しよう。意識の目覚めとはどういう状態であるかということと、
目覚させる方法についてである。
<同一視>と<魅惑>
意識は記憶と平行してあるものだ。だから意識が目覚めているかどうかを調べるとき、物忘れ、忘れものの
状況から自己診断することができる。決して忘れものをしないならば、意識があるという証しである。
また事故にあわないというのもそうである。どんな小さな事故にも、たとえば果物をむいていて指を切るとか、
ぬいものをしていて針でさす、歩いていてつまづく、そんなささいなこともないのなら、意識は眠ってはいない。
電車の乗り越しもそうだ。
おそらくこの本をお読みの読者はその程度の意識の目覚めは十分お持ちだと思う。だから今持っている意
識を開発していくことが大切である。そうした努力がないかきり、知らないうちにロボットになってしまうからだ。
たえず自分を監視している必要がある。
三パーセント目覚めていた意識が少しずつ眠りこけていくため、七歳くらいになると二歳のとき何をしていた
のか、何があったのかもう覚えていない。そして義務教育が始まる。小学校・中学校と教育をうけるが、これ
らの教育は意識の目覚めにはあまり役に立たない。
社会の中で機械的に生きるための訓練のようなものだから、子ともたちは退屈してしまう。唯一太っていく
のはエゴである。魂もサイキスも私たちの脳の中にある何十億という細胞も生かされることのない教育である。
そうやって私たちは大人になってきた。
だから最初にやらなければならないのは、自分がそういう状態にあるということを知ることである。自分の状
態を知らなければ、どう前進していっていいか作戦もたてられないので、まずそれをつかんでほしいと思う。そ
うすれぱ、我を忘れて魅惑される、という状態に陥ることはない。
私たちの意識を眠らせるのに三つの段階がある。
第一が<同一視>、第二が<魅惑>、第三が<眠り>である。
自己観察しながらこの三点に注意を払っていれば、自分の進んでいる段階を知ることができるだろう。同一
視とはどういうことかというと、自分の抱えている問題や環境を自分自身であると思いこんでしまうこと、あるい
は自分の好みのものとコネクションを持つことである。自分が修行のために降りてきた魂であることをすっかり
忘れて、三次元での自分の環境を自分自身であると勘違いするのだ。
簡単な例をあげてみよう。
私がたいへんな野球ファンであるとする。ある日街を歩いているとテレビ中継で野球をやっている。ちようと
道路側にテレビ画面が出るように陳列してあるので、立ちどまって見始める。ひいきのチームが健闘しており、
とてもおもしろい試合運びなので夢中になってしまう。とこに行くつもりだったかもすっかり忘れて、集中して見
ている。 それが同一視である。
そこにホームランがでた。するとまるで自分のことのように大喜びしている。スリに財布をすられても気づかな
いくらいに、我を忘れて喜こんでいる。ここで魅惑の状態が始まった。野球好きの人は多いので、そこにはすで
に人だかりができている。テレビをぐるりととりまくようにして、大のおとなが夢中になって野球観戦である。
人だかりができるとそれはさらに人をひきつけて、大きくなっていく。この魅惑の状態がさらに続くと、眠りの
状態に入る。まったく機械的な、ロボットのような存在となるのだ。そうなると、エゴが待ってましたとばかりに
活動を始める。乗っとられたようなかたちになるわけだ。
野球中継を見ているのもエゴである。すると何が起こるだろうか。自分の隣で野球を見ている人が他のチー
ムを応援している。自分のひいきのチームがエラーをすると、隣の人は大喜びである。さあそこですぐに喧嘩が
始まる。喧嘩好きのエゴがいさんで出てきて、喧嘩のための喧嘩を始めるのだ。しかしここで、ほんの少しでも
いいから意識の目覚めがあれば、喧嘩は防げる。我にかえって、
<なぜ、なんのためにこんな喧嘩をしているのだろうか>
そう問いかけるのである。 野球の試合を見ていて、とうして喧嘩をするのだろう、そう自分に問うのである。
まったく無駄な摩擦であることに、すぐに気づくはずだ。自分を常に忘れないでおこうという努力を始めて、絶
え間ない内観、自己観察を続けることによって、このように衝動をセーブできる。行動のパターンが異なってい
くのである。これがロボットから目覚めるということである。
これは野球中継だけに起こることではない。たとえばケーキを見て欲望が生じ食べてしまうということなど、
同一視、魅惑されるということは、私たちの日常生活の中であまりにも頻繁に起こることである。しかしこのよ
うないわば肉体的な同一視は比較的避けやすい。野球に魅惑されていても、テレビ放送の時間が終ればま
た歩きだして別の状態に入るし、ケーキにしたところで、三、四個食べればもうそれ以上は食べられないからだ。
やっかいなのは、別の状態に入れないタイプの同一視である。その筆頭にあげられるのが性、いつの時代
にも何らかの話題を投げかけずにはおかない性″というものである。その時代の性風俗を見ることで、生
活していた人々の精神の傾向を知ることができるといわれるくらい、性は人間にとって関わりが深いものだ。
自分を観察する自分
私は書店などでポルノグラフィックな雑誌を見ている人を観察したことがある。今、日本で出版されている男
性向けの雑誌には、何らかのかたちで女性のポルノティックな写真が載っているので、こうした機会は誰にで
もあると思う。
自分がそうならないために、一度観察してみると勉強になると思うのだが、ある男性はまず雑誌を手にとっ
てグラビアをめくった。そこには美しい女性があられもない格好して写真に撮られている。するとその男性はす
ぐにその写真とコネクションを持って、同一視した。周りにあるものはもう目に入らない。すへてがマインドの中
で働くような状態に陥ってしまった。
ページをめくっていくうちに、すぐに魅惑の状態に入って、たとえば彼の立ち読みしている雑誌のコーナーが
混んできて押されようと、他の人が脇のほうから彼の近くにおいてある雑誌を取ろうとしようと、気がつかない。
彼のマインドもサイキスもポルノに占領されて、他のものは全然入りこめなくなっている。
そして性に関しては、雑誌を見終わったからといってなくなるものではない。眠りの状態になり、肉欲のエゴ
が彼を乗っ取ってしまうと、そこから脱けだすのはそうたやすくはない。さらに新しい刺激を求め、さらに退廃を
深めていって、肉欲のエゴがとんどん肥え太っていくからである。とこかで意識が目覚めないことには、その状
態からは脱けだすことができないのだ。
このとき、どうすればいいかというと、自問するのである。片方に肉欲に強く惹かれていく自分がいるだろう
が、一パーセントの意識を何とか踏みとどまらせて、自分に聞くのだ。
<自分はなぜこの雑誌を見ているのだろうか>
その瞬間、注意力が〔ポルノグラフィック〕と〔自分自身〕の二つに分かれる。そこですかさず、ポルノグラフィ
ックを見ることで引き起こされるマイナス現象について思いうかべるのだ。
肉欲のエゴがこれを栄養として肥大する。性ホルモンの無駄使いは生命エネルギーの無駄使いと同じであ
る。大切な人生のエネルギーを擦りへらしていることになる。性的興奮は脳に熱を生じさせる。そして脳細胞
を破壊する。また性的退廃へと向かわせる〜などなど、マイナス要因のありったけを並べあげるのである。
あるいは神と魂について考えてもいい。私は今ここでポルノグラフィックな雑誌を見ているが、この様子を神
は見ているだろう。創造主は私を何か有益な存在とするために送りこんでくれたのに、私のこのありさまはど
うだろう。そうやって踏みとどまるのである。
それは成功することもあるだろうし、失敗することもあるだろう。しかし失敗してもあきらめることなく、成功の
数をふやしていくのである。積みかさねていくのだ。そうすることでエゴはしだいに弱くなっていく。栄養が与え
られないので醜く衰弱していく。そしてついには死んでしまうのだ。一つのエゴが根絶されるのに三ヵ月かかる
といわれている。
ケーキやアルコール、鎮静剤などに誘惑されたときも同じである。このときは自分の健康について考えるの
がよいだろう。ウイスキーが飲みたくなったときには、自分の脳細胞が破壊されることを思い起こす。そして、
<どうして自分はここでウイスキーを飲んでいるのだろう>
と自問する。あるいは、
<この鎮静剤を私は本当に必要とするのだろうか。では私は精神病なのだろうか。
マインドの退屈しのぎをしているのにすぎないのではないだろうか>
そう自分に聞くのである。そしてアル中として廃人同様になってしまった自分の姿などを思いうかべるわけ
だ。 こんな風な自己観察を常に行なうのである。自分自身を忘れないために、絶え間ない意識的なワーク
を続けていくのだ。
怒りのエネルギー
私たちの生命の中では、すべてがエネルギーを基礎として機能している。私たちの心理はサイキック・エネ
ルギーであり、肉体はさらに凝縮したエネルギーである。両方とも同じエネルギーであるが、その差は振動数
である。
私たちが何かを考えるときもエネルギーを使っている。そして陰性の思考、ネガティヴなことを考えているの
ならば、エネルギーを消耗する。私たちの脳には約一四〇億から一八〇億の細胞があるが、私たちが何かを
考えると、それが電気エネルギーとして脳を活動させ、脳の中にある一定の成分を生じさせる。そしてこの成
分は、やがて肉体全体で機能しはじめる。ネガティブな考えによって生じた成分は、肉体をネガティブな方向
へと向かわせるのだ。
たとえば、私がここで怒るとする。すると黄色い色をした成分を生じる。これは胆のうと関係を持つ成分なの
で、年中怒っているような人は本当に顔が黄色くなる。そういう人はまた、その成分を常に生じさせつづけて
いることによって、胞のうに結石ができることが多い。結石とは体内のカルシウムが退廃してできるものであ
る。
その上、怒りの感情は、オーラに穴をあける。怒りという感情は電気エネルギーを放電するようなものだから
だ。その分エネルギーも消耗していることになる。
こういった現象は怒りのみに限らない。陰性の思考(絶望感や悲観、ものごとを暗い方へと考えることなど)
悪い考え ねたみ・冷笑など、もろもろのネガティヴな感情はオーラに穴をあけ、しかも肉体的にも病んでいく
という結果を招く。そして興味深いことに、人間は機械的になっていればいるほどネガティヴな思考に陥りや
すいものだ。エゴに支配されているからである。
意識が目覚めているということは、常に自分自身を忘れていない、かつ冷静に自分を客観視している状態で
ある。ある人が私に向かって「ばか!」といったとする。それをきいて相手のことばと自分自身を同一視すると、
すぐに「ばか、ばか!」と言い返す。これが機械的な反応である。
けれども、その侮辱のことばを聞いたときに、<彼はなぜ私にばかといったのだろうか>と考えるとする。こ
れは冷静さが保たれている状態である。
そしてさらに、
<もしかしたら彼の言うことは正しいかもしれない。それならばどうして言い返す必要があるだろうか>
そう考えることもあるだろう。
あるいはこの侮辱のことばを受け取らないでいることもできる。自分で受け入れるか受け入れないかを選ぶ
のである。そうやって冷静さを保つことで、ネガティヴな成分を生じさせなくてすむ。
道ですれちがう人々の中に、たとえは家で奥さんとけんかして、あるいは会社で上司に文句をいわれて、機
会さえあれはすぐにでもけんかしてやろうと思って歩いている人がどれくらいいるだろうか。また職場や学校で
あった嫌なことを家にまで持ちかえって、家族にあたり散らす人がとれくらいいるだろうか。
そういった外側からくるものから身を守るには、受け取らないことかいちばんである。自分の内側に入れな
いことだ。
ネガティプな成分を生じさせることを考えよう。それが臓器の病気の原因となることを、オーラに穴をあけるこ
とを考えよう。そうすることで感情の激流に流されることを防ぐことができるのだ。
エゴのエネルギー
エネルギーについてもう一つの面から見てみよう。たいへん強力なエゴのエネルギーについてだ。このエネ
ルギーは私たちのパーソナリティーの中に宿っている。したがってエゴを絶滅してパーソナリティーを洗浄する
必要がある。性格はそうすることで変わっていく。
反対にネカティヴな思考はエゴの栄養となって、エコのエネルギーをますます強大にしていく。ポルノグラフィ
ーを見て同一視すればするほど、肉欲を強化することになる。それを野放しにしておくと、肉欲(のエゴ)はその
人の性はもちろんのこと、脳とハートにさえ及んで、その人のすべてをコントロールする。こうなるともう手のくだ
しようがない。完全なロボットとして犯罪さえ起こしてしまうだろう。
アジアの国々、タイやフィリピンなどでは日本人のことをセックスアニマルと呼んでいる。理由はお分かりだろ
う。これは正しいことではない。おそらくそんなことは誰でも知っているに違いない。特に買う側である日本人は
よく知っている。しかし肉欲のエゴはそんなことはおかまいなしである。このエゴを絶滅しなければならないので
ある。
エコを絶滅しないかぎり、口ではどんなに理想的なことをいおうが、サイキスは我欲の塊りのままである。エ
ゴはあきることのない欲望である。一つ満たしてもすぐに次の欲望を思いつく。どこまでいっても満足というこ
とがない。際限のない欲望である。
さらに悪いことに、一つ欲望が満たされるたびにそのエゴは強くなって、さらに大きな欲を持つことになるの
だ。欲が欲を呼んで (エゴがエネルギーをもらうことになって)エゴがどんどん肥え太っていくのである。
魂の美徳
あなたは今、この知識にふれている。それはたいへんすばらしいことだ。なぜならこの叡智は、あなたを現
実に直面させるからだ。多くの人々は、自分がロボットであるとうことを、人から言われるまで気づかない。眠
りこけ魅惑された状態で生きているからだ。しかし、あなたはロボットだ、といわれることで、ショックをうける。
そして自問を始める。
<私は本当にロボットなのだろうか。本当に私は退廃の道を歩いているのだろうか>
そうしてはじめて叡智を求めて歩き始めるのである。
なかにはロボットといわれてもピンとこない人もいるかもしれない。工場で動いているものだけがロボットだ
と思っているかもしれない。けれども街を歩く人々を観察し、また自分が一日をどうすごし、特に家に帰ってか
らどのような行動をとっているかを観察してみれば、ロボットとはどういう状態をさすかお分かりいただけるだ
ろう。
それは知性のない状態である。記憶にもとずいて行動しているだけで、たとえばどう行動するのが正しいか
とか、とう生きればよいかとか、そういったことには対応できない。言葉を並へて文章にすることはできるだろ
うが、芸術は生みだせない。自分の安全を守り保身する行動はできるだろうが、人のために身を投げだす犠
牲と献身という行為はできない。
とんなに多くのデーターを持っていようと、それはメモリーにすきない。行動や考えがそういったメモリーに
もとづいた計算ではじきだされるのが、ロボットである。
知性をもったロボットを開発しようという試みがなされているときくが、それは無理である。知性とは魂からく
るものであり、ロボットは魂を持ち得ないからだ。犬もある一定の知性は持っている。魂を持っているからだ。
しかしロボットはどこから魂を持ってくるというのだろうか。それは科学者たちの傲慢なおごりに他ならない。
知性とは魂の美徳のひとつである。私たちに進化のための道をさし示すものだ。私たちがロボットの状態で
あることをやめれば、知性は美しく輝き始め、多くのインスビレーションを与えるだろう。
日本はたいへん秩序正しい国である。人々もまた秩序正しい行動をとるし、似た志向を持っている。経済的
発展はそんな土壌があって成し遂げられたものだと思うが、しかしこういった秩序正しさ、自動的にものごとを
型にはめこんでいくという行きかたにおいて、注意しなければならない点がある。それは、意識さえも自動的に
なってしまうということだ。意識が自動的になるということは、心理的に退廃していくということにほかならない。
しかし人間の進化の基礎となるのは、意識的なワークである。自動的になった意識は進化には向かわない
し、自動的になった国にも精神的進化はありえない。
あなたがロボットの状態から抜けだす努力を始めるとき、自分の心理的な壁もさることながら、外側にある
壁にもぶつかることになるだろう。なぜならロボットの状態で生活している人々とは別の道を生き始めることに
なるからである。
職場や学校で同僚にこういう話をすると、どういう反応が返ってくるだろうか。おそらく奇異な限で見られるこ
とだろう。いやその前に、話す気さえ起こらないかもしれない。そういう人々が大多数であり、しかし自分は彼
らに引きずられることなく、といって浮き出してしまうこともなく、バランスをとって生活しなければならないので
ある。それはまたひとつの戦いでもあるし、試練でもある。
ふつうの人生も生き、内面的にはもうひとつの人生を生きているという風になるだろう。人類の長い歴史の
中で、人類の進化のために何かを成し得た人というのは、意識の目覚めていた人々である。あなたにもその
機会が与えられているのだ。自分を常に見張って、エゴに支配されないよう注意することだ。
と同時に、エゴの正体を暴き、そのエゴをつかまえたなら、もう決して栄養はやらないようにする。そうする
ことでエゴは死に至る。根絶できるのである。
そうして自由になっていくあなたが、エゴ根絶と同時進行で行なえば、よりそのワークが順調にいくというも
のが一つある。それは人類への献身である。
人類への献身
「人類への献身」というとなんだか大げさで、近寄りにくい感じがするかもしれないが、要するに、人のため
に役に立つこと、である。あなたの置かれた立場で、それをやれはよい。
勘違いしやすいのは、役に立つイコール何かを具体的にしてあげること、だと考えやすいことだ。そうではな
い。そうであることもあるけれども、反対に何かをしてもらうことで迷惑だと感じる人もいる。人の役に立ちたい
とあせるあまり、逆に迷惑をかけることのないよう注意しなければならない。押しつけはやはり自分のエゴから
発するものだから、<進化>をめざすにしても、方法については常に自己観察が必要である。
反対に自分が何もできない、無力であるからといって、役に立たないと嘆くことはない。人間とは物質的存
在ではないのだから、四次元の世界でいくらでも人の役に立つことはできるのである。やさしい気持をもち、
いつもやわらかいあたたかいバイブレーションを発しているだけで、充分人の役に立てる。そのあたたかさが
人を安らがせるからである。
前にも述べたように、私たちは何かをするためにその肉体を授けられて生まれてきた。だから必ず自分に適
した<人の役に立つ仕事>があるはずなのである。それを探すのも修行のひとつに入っているのだ。どうして
ストレートに与えられないかって? 理由は簡単だ。人間は自分に必然的な動機がないことはやらないからだ。
あなたはここで一生ドブ掃除をしていなさい、それがあなたの今生の役目なのですから、といわれて、素直
に従うことができるだろうか。しかしそこに至るあなたの苦しみと内的上昇があれば、ああドブ掃除でこの罪
を償い高次へといけるのであれば、なんと簡単なことだろう、と喜んで従うことだろう。
探せば、見つけることができる。求めれば、与えられる。望んで努力すればかなえられる。あなたは自分を
きびしく観察することによって、生まれてきて成すべきことさえ見出すことができるのだ。
今から始めてほしい。いやもう始めておられるかたもいるだろう。苦しいが、報われることがあまりにもすば
らしいワークである。この内的なワークについては、さらに深めて書いていきたいと考えている。この稿はさし
ずめ入門編といったところだ。しかし入門編といっても、重要なポイントはすべてふれておいた。
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最後になったが、この稿のタイトル「セトの神秘」について少し説明しよう。
セトとは古代エジプトの神・ホールスにつねについている陰である。図
を見てほしい。ホールスの後側からでているまっ黒い陰、それかセトで
ある。それは犬のようにも見え、オオカミのようでもキツネのようでもあ
る。何だかよくわからないものだ。これかエゴである。
しかしホールスはセトなしでは進歩できない。陰と陽の関係である。
陰は陽を輝かせるためにすべてに存在しているものだ。エゴとはそうい
うものである。そしてバランスを崩すと、本来陰である筈のものの力か
強大になってしまうのである。
「完全なる結婚」にでてくる*<ダブル>というのが、ちようどホールスと
セトの関係にあたる。私たちでいえば、魂とエゴの関係である。だから、
セトの神秘は一生の課題として、私たちが追求・研究していかなければ
ならないものなのだ。
*「完全なる結婚」=サマエル・アウン・ヴェオール著
*ダブル=人類のすべてが、それぞれのツインソウル(対霊)の神秘を持っている。
ダブル はあらゆる点で似ており同じ性向を持つ。が正反対の相似と
いう関係でもある。白の占 星術師に対して黒の占星術師が存在する。
例えば、デバダッタはブッダの兄弟であり対 立者とラマ僧は言う。
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ホールスとセト |
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