ノーシス人類学

                 本 当 の「私」

  私たちは、一体何者なのか?

  どこから来て、どこへ行くのであろうか?

  なんのために生きているのか?

  どうして生きているのか?


  はるか古代から現代の人類まで、上のような問いを常にしてきたに違いない。この普遍的な問いに答え
を見いだした賢者たちは、未来の人類のために何らかのメッセージを遺した。にもかかわらず、人類の多く
はその答えを見いだせず、また見つけてもそれに気がつかない。

  それはひとえに私達の「精神レベル」の違いにあるのである。これから、私達「人間」が本当は何者な
のか、探り出す勇気を持って分析していこう。

私たち(人間)は、間違って「人」と呼ばれている。

私たち(人間)は、みじめなインテレクチュアル・アニマル(理性ある動物)である。

私たち(人間)は、自分の無力を知らないばかりか、それを知らないという事実さえ知らない。

私たち(人間)は、自分のすべての悲劇の原因も知らず、すべてを知っていると確信して疑わない。

   
  我々、人類のほとんどは「人」の段階には至っていない。例え、学者達がそのように分類しても、真の「人」で
はない。「人」とは、今の私達とは精神レベルがはるかに違う存在である。

  そして私達は「動物的」なのだ。動物と変わらない「本能」に左右されてしまう。生きるための本能もあるが、そ
れ以外の本能にもコントロールされているのにも気がつかない。

  我々は力がある、と感じる人も多いだろうが、自然界一つとっても、その現象を見つめるしかできない。あくま
でも限界つきの力であり、自分がどのような力をもっているのか正確に考え、分析すべきである。

  そして人間は、「運命」に従う。時には喜び、時には苦い現実を受け入れなければならない。「運命」という歯
車は、一人一人の人生に確実に存在する。多くの人々はそれを気にもしないし、何か不幸なことがあると「運が
悪い」でかたづけてしまうであろう。

   しかし、一つの事実としては「宇宙のルール」すなわち宇宙的な法則が確かに存在する。
その一つが「運命の法則」である。人類のほとんどは宇宙的な借金をしている。

  ノーシス(叡智)を持つ者は、運命の法則から脱する可能性を持ち、実際に縛られることはない。宇宙的な
借金(カルマ)を返し、宇宙的な貯金(ダルマ)を積むことも可能となる。



理性ある動物(私達)は、実際に恐ろしく弱いものである。

理性ある動物(私達)は100%愚かである。

大昔の未開人と現在の我々はまったく変わらないばかりか、逆に退化してきている。



  私達人間は、昔から比べるとはるかに進歩してきている、という考えが一般的であろう。もちろんそのような
分野もあるとは思うが、精神レベルは、さて、どうであろうか?現在の人間は大きな勘違いをしてはいないだ
ろうか?

  仮に、私達が一人、砂漠の真ん中に置き去りにされた時、何ができるであろう。病気になった時、どのくらい
ポジティブな明るい気持ちのままでいられるだろうか。自分の予想しないことが目の前に起きた時、どのくらい
冷静に判断し賢い行動がとれるであろう。私達人間はどのくらいの逆境に耐えられるのだろうか。

  結論を言えば、私達人間は進化してきたのではなく、退化してしまったのである。この事実を受け入れるの
は容易ではないが、事実を事実として認識する勇気と賢さ、科学性が早急に私たち全人類に必要なのである。

  20世紀、21世紀の世界に存在する諸問題〜戦争、紛争、売春、性的退廃、中絶、麻薬、アルコール中毒、
想像を越えるような残虐行為、犯罪など、これらすべては我々人類の精神の反映である。道徳、倫理も崩れ
個人主義の名のもとに、また「自由」という名のもとに様々な意見が錯綜し、まさに「混乱」という迷宮にはまって
いる感がある。

   もし、私たち人類が本当に進化してきたというのであれば、真の平和が実現しているすばらしい世界が繰り
広げられていたと想像できる。しかし、現実とは残酷なもので、まったくの逆であろう。「私個人はそんな悪いこ
とはしていない」と言う人もたくさんいる。もちろん多くの人々が賢明な努力で日々生きているが、それだけで私
たちの精神性が向上し、進化することもない、と言える。


重要なことは、我々一人一人の在り方である。
大衆は個人の集団である。一人一人の在り方が大衆の在り方である。
大衆は個人の延長である。社会の変化、国民の変化は、一人一人個人の変化なしには不可能である。


  私たち一人一人の精神水準は違っている。私たちの本質的な姿はいったいどうであろう。

高貴であるか、けちくさいか、高潔なのか、ずるがしこいのか。おだやかなのか、野暮であるか、貞節であるか、
情欲的であるか。私たち一人一人の本質的な姿が集まり、大衆の本質的な姿に表れる。そしてそれは社会に
も表れる。だから、私たち一人一人は社会や国とまったく無関係、とは言えないのであろう。

  ちょうど細胞がたくさん集まって体の組織や器官を形作るように。「上にあることは下にもある」ということ
もおさえておきたい。宇宙の中でおこることは私たち人間の世界でも起こり、また原子の世界でも起こる。
(マクロコスモスとミクロコスモスの相似関係)

  それらの精神的レベルの違いによって、それぞれ自分の周りに多様な環境を呼ぶことになる。よって人生
を自分で生み出している、また運命の本質的な創造者は自分自身である。

  ここで必要なことは「自分に目を向ける」ということである。そして自分の現実に目を向ける勇気があるか、
ということが大切なのである。

  なぜ自分に目を向けるか、と言えばそれは人類の「変化」が必要だからだ。先ほども述べたように私たちは
退化してしまったのであるから。それに甘んじるわけにはいかない人々は変化を求めるだろう。人生の苦汁を
飲んだ人々、毎日苦労をして不幸だと嘆いている人々、また犯罪をおかし、心から後悔して懺悔を望む人々な
どは、自ずから根元的な変化を求めるに違いない。

  いずれにせよ、「本当の私とは?」と考え、分析していくことは、私たち一人一人が変化を遂げ、進化の道に
入る第一歩になるのである。

昨日、起こったことは今日も起こり、また明日も続く。
すべてを一生の中で繰り返す。

この退屈なドラマ、喜劇や悲劇の繰り返しはいつまで続くのか。

それは我々の内部に、怒り、強欲、肉欲、ねたみ、うぬぼれ、
怠惰、大食などの好ましくない要素が存在する限り、続くのである。

我々の道徳的水準、精神のレベル(水準)は今、どこにあるのか。

この精神レベルが変わらない限り、いつまでも悲惨なドラマ、不運
な場面は繰り返すのである。

我々の周囲に起こるすべての出来事は、まさに我々の内部の精神
レベルの反映に他ならないからだ。

「外は内の反映である」と断言できよう。

人が内面的に変わり、その人の変化が徹底的である時、はじめての人の周囲の状況が、生活が変化をとげるものである。

  今、ここで私たちの心の中、内部に、怒り、強欲、肉欲、ねたみ、うぬぼれ、怠惰、大食などの好ましくない
要素が存在することを認める時がやってきた。そして、認めるためには発見することが必要である。その時に、
これらの好ましくない要素=エゴ(Ego)が本当に自分にあるのだ、ということを認めざるを得ないはずである。

  一人一人の人間から憎しみ、怒り、淫乱、アルコール、悪たれ、残酷さ、エゴイズム、中傷、ねたみ、自惚れ、
などを取り去ることができたなら、当然その人にはひれまでとは違った種類の人々が近づくということだ。

「類は友を呼ぶ」−心の親和性の法則−単にこのことだけでもその人物は精神的に洗練された人々と知り合
い、それによって経済的、社会的にも、今までの生活とは違う生活に変化させることができるだろう。

真に徹底的な人生の変化を遂げたい、と願うならば、まず第1に、白人、黒人、黄色人種と、肌の色を
問わず、また、無学であろうが学識があろうが、すべての個々人は、精神的にレベルが異なる、という
ことを理解しなければならない。


我々の精神レベルはいったいどこに位置するのか。

このことについて我々は一度でも考えてみたことがあっただろうか。

自分自身の精神レベルをまず知ることなく、他のレベルへ移ることは不可能である。



 「本当の私」とはいったい何者であるか。それは自分の好ましくないエゴ(Ego)を正面から見てみようとする
勇気と努力を持ち続ける人達だけが、この答えを解明する権利を持つのである。


黒字は、ノーシス心理革命「第一章 精神のレベル」(サマエル・アウン・ベオール 著)より抜粋