西湖の地名と歴史
さいこ西湖〈足和田村〉
古くは西ノ湖・西海・西ノ海とも書き,「にしのうみ」と呼んだ。富士山の北面、御坂山地十ニケ岳・節刀ケ岳の南麓、西湖の湖畔に位置する。南東に足和田山があり、南西には青木ケ原の樹海が広がる。地名は湖名に由来し、高所から望むと一嶺(雁坂峠)を隔てて東に河口湖があり、これに対して西にある湖を西湖と名付けたという(国志)。西湖は、貞観6年の富士山噴火により、セの海が分断されてできたという。集落は西湖と根場に分かれるが,昭和41年の26号台風による水害でともに一部が湖の南岸に移住した。北の十ニケ岳は役の行者が富士登山に際して斎戒した所と伝わる。地内に檀持山無量寺の廃寺跡があり、夢窓国師の住山した跡といい、寛政年間に山腹から掘り出された釜は夢窓国師の時のものという(国志)。地内青木ケ原には西湖蝙蝠穴と竜宮洞穴があり、コウモリとともに国の天然記念物。


〔中世〕西海郷 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。
八代郡のうち。「にしのうみ」と呼んだ。正和4年9月20日の三浦助法譲状写に「西湖山」とあり、助法から新助景光に譲与された所領の東の境となっていた。同年9月28日の三浦助法譲状写によれば、この所領は「にしのうミ・すきやま・おふはた・おふむろ」の4か所を指したことが知られる(西湖村市郎兵衛所蔵文書/甲州古文書3)。下って明応7年8月25日の東海大地震に引き続いて同月28目に起こった暴風雨のため、西湖・河口湖の周辺の「西海・長浜・大田輪・大原」の村々では、多くの死者が出たという(妙法寺記)。また命禄元年(天文9年)7月10日の武田信虎印判状に「西之海之内 ふつせきの役所」と見え、所役が免許されている。天文22年5月晦日の武田晴信印判状には小林九郎左衛門尉・同民部左衛門尉・渡辺左近丞・同清左衛門尉・同七郎左衛門尉・同右近丞・同縫殿右衛門尉・同弥右衛門尉の「西之海衆」と呼ぱれる8人の小土豪が見え、本栖の番と材木等の奉行を勤めて冨士山麓の往還を認められていた。天正5年2月22日の武田家印判状写にも「西海之郷」と見え、近辺の諸郷とともに諸役が免除された。天正9年と推定される3月14日付の信盛証文では、西海郷の年貢以下のすべてが弥左衛門・与三左衛門・清右衛門(西海衆か)に預け置かれている。天正10年に入ると、甲州は織田・徳川軍の侵入を受け、同年4月には「八代郡西海郷」宛の織田信長禁制が出されている。

〔近世〕西湖村 江戸期〜明治22年の村名。
八代郡のうち。「にしのうみ」と呼んだ。中郡筋に属す。はじめ旗本渡辺囚獄佑氏知行、天和2年からは幕府領(市川・石和の各代官所支配を経る)。村高は,「慶長古高帳」1石余、「宝暦村高帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに3石余。田はなく、すべて畑。「国志」によれば、枝郷に棋易があり、文化初年の戸数102・人口446(男240・女206)、馬11、商売鑑札39枚を所持。また、富士の裾野にあたるため当村の年貢は少ないとある。他国行商街免の鑑札で、天正10年以来の特権であるといわれ、これによって生計を立てた。また、地内の豊富な林産物を利用して杣・木挽きを行い、保太・板などを他国へ売り出した。江戸後期には当村の者が河口湖からコイを移殖したという(南都留郡郷土誌)。神社は薬明権現が本村と根場の両所に祀られ、また十ニケ岳の最高峰に山霊を祀って最上権現と称す。寺院は釈迦堂という持仏堂があり、三浦の持仏堂と称し、ほかに観音堂が本村と根場の両所にある。明治4年山梨県に所属。同7年の戸数92・人口433。同11年東八代郡に属す。村の広さは東西1里35町・南北1里15町、山梨県庁からの道のりは9里余、地租改正後の反別は畑はなく切替畑47町余など計49町余、地質は富士焼砂交りで悪い(市郡村誌)。作物は麦・粟などのみで、薪・炭・材木などを生産・販売するのを生業とした。明治22年南都留郡に編入されて西湖村の大字となる。

〔近代〕西湖村 明治22年〜昭和17年南都留郡の自治体名。
西湖村と長浜村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。役場を西湖に設置有明治24年の戸数185・人口976。同25年長浜を分離し、それぞれ単独で自治体を形成。大字は編成せず。同年長浜村と組合村を結成し、組合役場を長浜村に設置。西湖には、大正元年から養魚場が設置され姫マスが放流された。また、当時郡費をもって養魚場に5万粒の姫マスの卵の孵化設備ができ、同4年には県に孵化場を貸与し、県費によって施設が拡張した。昭和5年米国産の河マス・虹マスの孵化に成功し、さらに同9年養殖池および稚魚養成池を開設する。このため西湖の魚族は数を増し、近年釣り人口も増加し、西湖の虹マス釣りは盛んになった。昭和17年西浜村の大字となる。

〔近代〕西湖 
@明治22〜25年の西湖村の大字名。
明治24年の戸数79・人口417、物産は麦・馬鈴薯・玉蜀黍・桑・繭・紬織物・枯露柿など、民業は、ほとんど島業で、余業として養蚕43戸・商15戸・工19戸(市郡村誌)。西湖村の役場が置かれた。同25年単独で自治体を形成。
A昭和17年〜現在の大字名。
はじめ西浜村、昭和30年からは足和田村の大宇。近年西湖の虹マス釣りが盛んになり、同湖に通じる県道が整備され、国道137・139号とも連絡して交通の便がよくなるにしたがい、宮士をひかえた大自然の景観を生かした観光サービス業がおこった。特に昭和41年の台風により壊滅的な打撃を被った当地は、集落あげて湖西岸青木ケ原県有地に移転し、民宿を開業した。当時、高度経済成長期にあたったことと西湖の豊富な魚族資源や霊峰富士をひかえた自然の景観により観光開発が進み、富士急行の西湖民宿行のバスも運行された。


さいこ西湖<足和田村>
南都留郡足和田村にある宮士五湖の1つ。湖面の標高904m・表面積2.3ku・最大深度76m・最大透明度11.5m。水色は淡い藍色である。河口湖の西約1qに位置し、水面が河口湖より約60m高く、この落差を利用して発電所が建設されている。本栖湖・精進湖・西湖の3湖はもとは連続し、セの海といわれた。当湖から精進湖にかけて広がる裾野は青木ケ原樹海である。近くには、国天然記念物の蝙蝠穴・竜宮洞穴などの溶岩洞穴がある。当湖南方には岳北の展望に富む足和田山(1,355m)がある。昭和56年7月、大路原浜沖30m・水深12mから全長11.2m・最大幅90cmの丸木舟が引き揚げられ話題を呼んでいる。昭和41年9月25日の26号台風に伴う土石流で大被害を受け、湖畔の西湖・根場の両集落は全滅し死者94人にも達した。両集落の大部分は昭和44年、青木ケ原上に移住し、民宿を主とする観光村となっている。8月2日に竜宮祭が盛大に行われる。


さいこ西湖<富士河口湖町>
平成15年秋、足和田村は市町村合併により、河口湖町・勝山村と統合し、富士河口湖町となった。

参考文献 山梨県地名大辞典 角川書店

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