ギリシア人の賢人たちは、天が宇宙霊魂の本性によって回転し正義と理性を教えていると主張する1)。どのような正義を、どんな理性を教えるというのだろうか。実際、もしもそれ自身の本性によってではなく、彼らが宇宙霊魂と呼ぶものの本性によって、天が回転するのであれば、宇宙霊魂は宇宙全体に行き渡っているのであるから、どうして地や水や空気も回転しないのだろうか。さらに彼らによると、魂は常に運動しているにもかかわらず2)、地はそれ自身の本性によって静止し、水は下方の位置を占めていおり3)、同様に天も、それ自身の本性によって常に運動し円を描いて運動し、上方の位置を保持しているのである。また、その本性によって天が運くところの宇宙霊魂とは、一体何ものなのか。それは、理性的なものなのであろうか。そうだとすると、宇宙霊魂は、自律的なものとなってしまい、天体を常に同じ運動で動かすことはできなかっただろう。と言うのは、自律的なものは、その時々に違った運動をするからである。そのうえ我々は、理性的魂のどんな痕跡をこの最下位の球の上に――繰り返していうと、わたくしは地のことを言っているのである――あるいは、それに一番近いもの、すなわち、水と空気の上に、あるいはまた、火そのものの上に見出だすだのだろうか。たしかに宇宙的霊魂は、それらに行き渡っているのである。また、どうしてあるものは魂を持ち、また、あるものは魂を持たないのだろうか4)。これも、彼らの見解である。しかも後者は、適当に思い付かれたものではなく、すべての石とすべての金属、すべての土、水、空気、火のことである。彼らは、火もまたそれ自身の本性によって運動するのであって、魂によって運動するのでないと言っている5)。してみると、魂は(それらに)共通しているのであるから、どうして天だけがその魂の本性によって動き、天それ自身の本性によって運動しないのだろうか。しかも、彼らによって天体を動かすとされる魂は、理性的なものではありえないのである。それなのにどうして、いやしくもそれが彼らのいう通り我々の魂の源であるとすれば、理性的でないことがありえようか。だが、もしもそれが理性的でないとすれば、それは感覚的なものか植物的なものであろう。しかし我々は、それらの内のどれ一つとして、有機的器官を持たない物体を動かすのを見たことがない。ところが我々は、地や天の有機的な肢体や、天や地の中にあるその他の元素の有機的な肢体を見ることがない。それと言うのは、有機的器官のことごとくが、さまざまに異なった本性から構成されているからであり、また、元素の一つ一つは、単一の本性に属しており、とりわけ天はそうだからである6)。「ともかく魂は、可能的に生命を持つ有機体の完全現実態である7)」。しかるに、天はいかなる有機的な肢体も部分も持ってはおらず、また、生きることもできない。そうであれば、どうして、生きる能力を持たないものが、そもそも魂を持つことができるのだろうか。しかし、「彼らは、自分たちの物思いの中で愚か者になり、無分別な心から(Rm 1.21)」、存在もせず、存在したこともなく、存在することもない魂を考案してしまったのである。そして彼らは、そうした魂こそが、創造主であり操舵手、また予見者であり、しかも、感覚的な宇宙の一切、我々の魂、いや、むしろありとあらゆるものの、いわばある種の根とか源のようなもので、精神からの生まれを有していると公言するのである。そのうえ彼らは、この精神は、彼らが神と呼んでいる至高の精神とは、実体において別のものであるという8)。彼らによると、知恵と神学において頂点を極めた人たちは、真相は以上の通りだと教えているという。彼らは、数々の獣や石を神として崇める者たちに優ることはいかばかりもなく、むしろ畏敬の念に関してはるかに劣った状態にある。と言うのは、獣や黄金、石や青銅には、たとえそれらが被造物の中で最低のもであっても、幾らかの取り柄があるからである。しかし星を荷なう宇宙霊魂は存在もしないし、何の取り柄も持たない。それはとにもかくにも、悪霊に取り憑かれた思いなしによるでっちあげ以外の何ものでもないのである9)。