天体が運動することは必然であり、しかも、それが向かって行けるもっと遠くの場所は何もないのだから、天体はそれ自身へと回転して戻り、その前進運動は回転運動である、と彼らは言う1)。よろしい。それでは、もしも(天体が行ける)場所があるならば、天体は、火と同じように上方へと運ばれることになろう。しかも火それ自体よりももっと上方へと。というのも天体は、その本性において火よりもずっと軽いからである2)。ところでその運動それ自体は、魂の本性に属しているのではなく、軽さの本性に属している。したがって、もしも天の前進運動が回転運動であり、それがこの運動をそれ自身の本性によって持ち、魂の本性によって持つのでないとすれば、天は、魂の本性によってではなく、それ自身の本性によって回転することになる。そうであれば、天には、魂はないし、また、ある天的な、あるいは、全宇宙的な魂といったものも存在しないことになる。だが、ただ人間の魂だけが理性的魂なのである。しかも人間の魂は、知性的な実体であるがゆえに3)、場所によってではなく、それ自身の本性によって、天的ではなく、超天的なものとなっている。