93 神のこの輝きと神化するエネルゲイアとは――それに参与する数々のものは、神化される――一種の神的な恵みである。しかしそれは、アキンデュノスの馬鹿げた屁理屈がいうように、恵みを与えられたものたちから遠く隔たっているような神の本性ではない。なぜなら神の本性は、あらゆる所に現存しているからである。しかし神の本性は、分有されるものとして偏在するのではない。先に示されたように、たぶん、造られたものは何一つとして、それに与ることはできないだろう。当然、(聖)霊の神的なエネルゲイアと恵みも、あらゆる所に現存し、この霊と分かたれることなくあり続ける。しかし霊の神的なエネルゲイアと恵みとは、不浄のゆえに参与に相応しくないものとなっているものたちにとっては、(それらから)遠く隔たっているかのごとくで、彼らによって参与されうるものではない。事実、(バシレイオスは)こう言っているのである。「諸々の顔の反映が、すべての物質の中に生じるのではなく、ある程度の研磨と透明度を獲得した物質の中に生じるのと同じように、霊のエネルゲイアは、すべての魂の中に生じるのではない。それは、歪みやもつれを少しも含まぬ魂の中に生じるのである1)」。さらに、「聖霊は、すべてのものの中に現存している。ところが聖霊は、諸々の激情から浄められた人たちには、ご自分のデュナミスを顕わされるが、罪から生じる数々のしみで主導能力を曇らせている者たちには、もはや顕わされない2)」と。

 

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