95 さて、いまこの場合にも、分有されたエネルゲイアは造られたものでもなければ、神の実体でもないことを、キリストの洗礼者ヨハネにも登場してもらって、他の弟子たちにまさってキリストに愛されたヨハネおよび黄金の舌を持つヨハネとともに、証言してもらうことにしよう。(キリストに愛された)一方のヨハネは、記録し、書き記した。他方の、キリストの先駆者であり洗礼者であるヨハネは、おん父なる神からキリストに、霊が限りなく与えられた、と言っている1)。またもう一方の、金口ヨハネは、これを解釈しながら次のように書いている。すなわち、「ここでヨハネは、エネルゲイアが霊であると言っている。と言うのは、我々はみな、霊のエネルゲイアを限りをもって受け取るが、あのおん方はそのエネルゲイアの一切を、限りないものとして、しかも全体として持っておられるからである。そして、もしもその霊のエネルゲイアが限りないものであれば、いわんやその実体は、はるかにそれ以上であろう2)」と。すなわち彼は、洗礼者が言ったように、エネルゲイアが霊である、いな、むしろ神の霊そのものであるということによって、また、そのエネルゲイアが限りないものものであるということによって、その非被造性を明らかにしたのである。そのうえ、我々がそのエネルゲイアを限りをもって受け取るということによって、彼は、造られざるエネルゲイアと造られざる実体との違いを明らかにしている。実際、いかなる人も神の実体を決して受け取りはしない。また、たとえあなたが万人を百羽ひとからげにまとめ合わせてそんなことを言っても、各人は、その浄化に比例して部分的に受け取る(だけだ)なのである。クリュソストモス神父はさらに進んで、造られざる実体と造られざるエネルゲイアとの、さらなる違いを指摘している。彼は言う。「もしもその霊のエネルゲイアが限りないものであれば、いわんやその実体は、はるかにそれ以上である」と。

 

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