110 何ものかを分有していると言われるものは、分有されたものの部分を所有している。というのも、もしも部分をでなく、全体を分有しているとすれば、それは厳密な意味で全体を所有しているのであって、そのれを分有しているとは言われないだろう。してみると、いやしくも分有するものが必然的に部分を分有するとすれば、分有されるものは可分的である。しかるに、神の実体は分かたれざるものである。したがって、それはまた、絶対に分有されざるものである。他方、クリュソストモス神父は、その著作の多くの箇所で、分かたれることは、神のエネルゲイアに属していると表明している1)。そういうわけで、神のエネルゲイアは、神化の恵みに相応しくされた人たちによって、まさしく分有されるのである。そこでもう一度、その舌が黄金の人の言っていることに耳を傾けてもらうことにしよう。彼は、両方のことをきわめて明瞭に教えている。すなわち、エネルゲイアが分有されるのであって、実体が分有されるのではない。しかも、エネルゲイアは分かたれずに分かたれ、そして分有される。しかし神のエネルゲイアがそこから発出するところの分有されざる実体は、そうではない、と。実際、彼は次のようなご福音の言葉を添えながらながら、こう言っているのである。「『我々はみな、このおん方の満ち満ちた豊かさの中から受け取った』。実際、もしも火の場合について、ここで分有されるものが、実体であると同時に、物体であるとすれば、また、我々がその火を分けると同時に、分けていないとすれば、いわんやエネルゲイア、しかも、非物体的な実体に由来するエネルゲイアの場合には、はいかばかりであろうか2)」。

 

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