106 超実体的、超生命的、超神的、超善的な本性は、それが超善的、超神的その他であるかぎり、語られることもなく、考えられることもなく、そもそもまったく観想されもしない。なぜなら、そのような本性は、すべてのものを超越し、超不可知的であるからであり、そのうえ、その掌握されざるデュナミスにおいて超天的な数々の精神を凌駕し、常にあらゆる点でまったく捉えられず、常に言語を絶しているからである。そして、いまの代にも来るべき代にも、その本性の名称は存在しない。(それを表す)言葉は、魂の中に浮かばず、また、舌を通してその言葉が表明されることもない。(そうした本性との)何かしら感覚的ないしは知性的な接触もなければ、分有もない。そして(それについての)表象さえまったくありえない。そこで神学者たちは、否定による完璧きわまりない把握不可性、すなわち、存在するすべてのものやおよそ語られるすべてのものを断固として寄せ付けない把握不可性を、その本性に一層近似したものとして、措定する。したがって、一切の真理を超える真理に通じているどんな人も、厳密に命名しようとしたところで、それを実体と名付けたり、本性と名付けたりすることは、到底かなわぬことなのである。他方、それは、すべてのものの原因であり、また、すべてのものはそれをめぐりっており、そのおかげで存在しているのであるから、さらにそれは、すべてのものに先立って、すべてのものを単純かつ無際限にそれ自身の中に先取りしていたのであるから、それは当然すべてのものから、厳密にではないが、転用的に命名される。したがってそれは、実体とも本性とも呼ばれてしかるべきであるが、厳密には、神の実体化する発出およびエネルゲイアと呼ばれねばならないのである。事実、これこそが、「本当に存在するおん方の本当に現実的で神学的な、実体に即した名称である1)」と、偉大なディオニュシオスも言い切っているのである。

 

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