108 実体の一部分は、それがどんなに小さなものであっても、その実体のすべての能力を有している。たとえば、火花は輝くものであり、光を与える。それはまた、数々の近づくものに分け入って、それらを燃やすことができ、本性的にそれ自体で動き上昇するものである。一口に言えば、火花は、火が持っているすべてのものを有しているのである。火花は、その火の一部である。また、ひと滴は、水が持っているすべてのものを有している。そのひと滴は、水の滴である。さらに、金属のひと塊は、その金属が所有しているすべてのものを有している。そのひと塊は、その金属の断片に他ならない。とにかくそういうわけで、いやしくも我々が、神のあの顕現せざる実体を分有するとすれば、たとえその実体のすべてを分有する人がいようとも、あるいは、その一部を分有する人がいようとも、その人は全能者となるだろう。そして同様に、諸々の存在者の各々も全能となることだろう。しかし、たとえあたが、被造物の一切をひとからげにして、言ったとしても、我々はみな、神の実体にあずかることはできないのである。パウロは、霊の数々の神化する恵みを所持したものたち自身のためにこのことを十二分に明らかにして、霊のすべての賜物が各々の人に属しているのではないと証言している。むしろ、「ある人には知恵の言葉が、ある人には認識の言葉が与えられ」、また他の人にはべつのものが、「同じ霊に従って与えられます(1 Co 12.8)」と彼は言っているのである。また、クリュソストモス神父も、明らかにバルラアムとアキンデュノスの迷妄をまえもって阻止し、「すべての(恵み)を持つ人はいない。それは、彼が恵みを本性だと思い込まないようにするためである1)」と言っている。しかしだからと言って、理解力のある人は、ここで神の本性と区別された恵みを造られたものだと思い込まないようにしてもらいたい。なぜなら、神の本性に関して、その本性は被造物であると思い込む人がいるのではなかろうか、と心悩ます人が、そもそもいてほしくないからである。また、たとえ霊の恵みが神の本性と区別されていても、霊の恵みは、神の本性から引き離されているのではなくて、むしろ相応しい者たちを神的な霊との結合へと引き寄せるものだからである。

 

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