112 神は、ご自身においてご自身と同じである。そして、神の三つのヒュポスタシス[個別存在]は相互に、本性的に、全面的に、永遠に、不可分にあると同時に、混ざることなく、混同することなくあり、相互に浸透し合っている。その結果、それらのヒュポスタシスのエネルゲイアも、一つとなっている。人はこのことを、造られたもののどれにも見出すことはできないだろう。たしかに、数々の同類のものの間には、数々の似たものがある。しかし各々のヒュポスタシス(個別存在)は、それ自身で働いているのであるから、エネルゲイアもまた(各々のヒュポスタシスに)固有なものとなっているのである。ところが、神のあの伏し拝まれるべき三つのヒュポスタシスの場合には、このことは当てはまらない。なぜなら、神の場合には、エネルゲイアは、本当に一つであり、かつ同じだからである。実際、神のご意思の動きは一つで、おん父の最初の原因によって動かされ、おん子を通して発出し、聖霊において顕らかにされるものなのである1)。そしてこのことは、数々の成し遂げられた成果から明らかである。実際、(神の)一切の本性的エネルゲイアは、ここから知られるようになっているのである。したがって、似てはいるが、互いに異なる燕によって、違った巣が作られるように、また(似てはいるが)異なる書き手によって違った頁が――たとえそれが同じ文字で出来上がっているにせよ――書かれるのとまったく同じように、おん父とおん子と聖霊との場合にも、諸ヒュポスタシスの各々によって成し遂げられた(それぞれに)固有な成果が見られるのではない。むしろ一切の創造は、ご三方の一つの業なのである。こうした創造から我々は、神のエネルゲイアが、伏し拝まれるべき三つの位格[ペルソナ]の一つの同じエネルゲイアであって、しかもそれは、それぞれの位格に割り当てられて、相互に似たものとなったエネルゲイアなどではない、と考えるように、教父たちによって教えられたのである。

 

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