113 おん父とおん子と聖霊とは、お互いの内に混同することなく、混ざることなくある。このことこから我々は、彼らの動きとエネルゲイアとは、厳密に一つであることを知る。おん父は、それをご自身の内に、生命やデュナミスとして、すなわち他ならぬおん子として持つ――おん子は、生命をもデュナミスをも、おん父に他ならないものとして持つおん方である。またこのことは、おん子と聖霊の場合も、もちろん同様である。しかし、他ならぬ神ご自身が我々の生命であるという理由で、そして神ご自身が、他のものとの関係においてではなく、それ自身において、代に先立つ生命であるという理由で、神のエネルゲイアが、神の実体と少しも異ならないと思い込んでいる人たちは、不敬虔な輩であり、無学な輩である。彼らが無学な輩だと言うのは、彼らが次のことをいまだに教えられていないからである。すなわち、いと高き所にまします三位が、他ならぬ神ご自身であること、また、いと高き所にまします唯一者も他ならぬ神ご自身であること、しかも、このことは、唯一者が三位と異なることを少しも妨げるものではない、ということである。また、彼らが不敬虔な輩だと言うのは、彼らが、実体とエネルゲイアとを互いに他方によって排除させているからである。実際、他のものとの関係においてあるもの[対他性]は、実体ではなく、また、それ自身に即してあるものは、他のものとの関係においては存在しない。ともかく、それらがもしも、互いに異なるものではまったくないとすれば、それらは、互いに他方によって排除されていることになる。いな、むしろそれらは、それらを少しも異ならないという者たちを、敬虔な人々の登録簿から取り除いているのである。

 

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