114 しかし我々は、神のおん子が原因として、またエネルゲイアに即して、我々の生命であること、そしてそのおん方ご自身が、あらゆる意味で(他のものとの)関係を絶して、まったく絶対的に、それ自身で生命であることを告白する。そして我々は、そのおん方がそれら両者を造られざる仕方で所有しており、このことはおん父と聖霊の場合も同様であると主張する。したがって、我々の生命そのものは、まさしく――我々は、生けるものたちの原因としてこの生命そのものによって、生かされているのである――おん父とおん子と聖霊とに他ならない。たしかに、三つのヒュポスタシスを有する我々の神は、原因として、我々の生命であると言われている。そして、原因としてでもなく、他のものとの関係においてでもなく、関係を絶して、それ自身で神学的に語られる神の生命は、おん父に他ならず、そればかりか、おん子と聖霊にも他ならないのである。しかしそう言ったことは、神が、実体および(三つの)諸ヒュポスタシスにおいてばかりでなく、三者に共通の神的なエネルゲイアにおいても、造られざるおん方であると考えている人たちを、決して不愉快にさせるものではない。「事実我々は、神がその三つのヒュポスタシスにおいて唯一であり、唯一の実体およびデュナミスそしてエネルゲイア、またそのほか、実体をめぐって観想されるすべてのものをお持ちであると、神学的に主張する。さらに、これらのものは、聖書によると、神性の集いとも、満ち満ちた豊かさとも言われており、聖なる三つのヒュポスタシスの各々において等しく観想され、神学的に語られるものなのである1)」。

 

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