115 この神的なエネルゲイアを拒絶して、ある時には、それを造られたものであるといい、またある時には、それが神の実体とは少しも異ならないといい、さらにまたある時には、新たに別の不敬虔を作り出す者たちは、おん父のおん独り子が、唯一の造られざるエネルゲイアであると教えている。そのうえかられは、この考えを確かなものにしようとして、威厳あるキュリロスのあの言葉さえ持ち出している。すなわち、「おん父がご自分の内に持っておられる生命は、おん子と異なる何ものかではない。そして、おん子の内にある生命は、おん父と異なる何ものかではないから、「わたしがおん父の内におり、おん父もわたしの内におられる」と言われたおん方は、まさに真実を語っておられるのである1)」。しかし我々は、手短にそして可能なかぎりで、この聖人のこれらの言葉の中にこめられた考えを提示することによって、捉えどころのない蒙昧によって我々に反対する者たちの不敬虔さを、反駁することにしよう。さて、彼らは悪いことに、次のように言っている。おん子がおん父に似ていないばかりでなく、おん父の後に位置しておられる。なぜなら、おん子は、本性においてではなく、分有と付加とによって外から持ち込まれたものとして、生きることと生命とを得ておられるからであり、また、おん子がこの生命をおん父から受け取り、そして受け入れられたからである。それは、聖書にこう書かれている通りである。「おん父がご自分の内に生命を持っておられるように、おん子にもご自分の内に生命を持つようにされたのである(Jn 5.26)」と。そこで神的なキュリロスは、ご福音のこのみ言葉をこんなにも不敬虔に理解する者たちに対して、こう言い返している。「たしかに神は、数々の生けるものを生かすおん方として、まさにそのエネルゲイアにおいて生命と言われている。なぜなら神は、本性の造り主として、本性に従って生きる数々のものの生命だからであり、そればかりか神は、恵みの提供者として、神的に生きる者たちの生命でもあるからである。しかし神はまた、他のものとの関係においてではなく、あらゆる意味において無制約的かつまったく絶対的に、ご自身に即して生命である、とも言われている2)」。神的なキュリロスは、それらのいずれにおいても、おん子はおん父と少しも異ならないこと、および、おん子がおん父から何かを受け取ることは、おん子がおん父の後に位置していることを示すのではなく、またおん子が実体において、時間的に第二の位置を占めることを示すのでもないことを明らかにしようと望んで、そのほか多くの言葉を費やしたうえで、さらに次のことも言っている。「何かを受け取ることにおいて、(おん子は)存在することをお持ちになるのではない。むしろ(おん子は)存在することで、何かを受け取るのである」。そして彼はこう言って言葉を結んでいる。「したがっておん父から何かを受け取ることは、必然的におん子が実体において時間的に第二の位置を占めることを意味しない3)」と。ここで(神的なキュリロスは)おん父がお持ちになり、またおん子がおん父から受け取られる生命は、実体ではないと理解しているのである。

 

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