116 神的なキュリロスは、さらに次のことを明示している。すなわち、神のおん子が数々の生けるものを生かすおん方であり、それらの生命と呼ばれているので、おん子は、そのエネルゲイアに即して、それらの生けるものとの関係において、生命であると言われる。しかしそれだからと言って、その点で、おん子はおん父と似ていないというのではさらさらない。むしろおん子は、それらの生けるものの生命であることとそれらを生かすこととを、おん父とまったく同じように、本性においてお持ちなのである。神的なキュリロスはこう明示したうえで、さらに続けてこう書いている。「もしもおん子が本性において生命でないとすれば、おん子がこう言われるとき、どうして真実を語ることになろうか。すなわち、『わたしを信じる者は、永遠の生命を持つ』と」。さらに、「わたしの羊たちは、わたしの声を聞き分ける。そしてわたしは、彼らに永遠の生命を与える1)」とある。そして少し後で、「おん子は、本性においてご自分に属し、実体的に内在する生命を、ご自分を信じる者たちに与えようと約束なさっているのであるから、一体どうしておん子が、生命をお持ちにならなくて、それをおん父から受け取ったと考えることができようか2)」。したがって、生命が、神に本性的に属していることを聞くたびに、それは神の実体であると、狂気に駆られていう者たちは、恥じ入るがよい。と言うのは、おん父もおん子も聖霊も、我々信者にご自分の実体をお与えになることはないからである。こんな不敬虔は御免こうむる。

 

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