117 さらに引き続く箇所で、偉大なキュリロスは手加減することなく一貫して、バルラアムの諸見解に感染した者たちに反論を加え、こう言っている。「おん子は、おん父から進み出られるとき、おん父がお持ちになるすべてのものを本性的にわがものとなさっている。ところで、おん父に属しているものの一つは、まさしく生命である1)」。このように(偉大なキュリロスは)ともかくも、「おん父に属しているものの一つは」ということによって、おん父に属しているものが多くあることを明白に証明している。そこで、もしもその生命が、神の実体であるとすれば、このように考える者たちに従うと、神は多くの実体をお持ちだということになる。しかし、存在と属性とが――何らかの観点で同じである場合を除いて――同じであるということは、不敬虔であることは無論のこと、無学の極みに欠けることはない。しかしさらにそれ以上に、はるかに馬鹿げたことは、存在と数々の属性とが、すなわち一と一より多くのものとが、いかなる観点の下でも異ならないということである。なぜなら、何かあるものが、同じ観点の下で一つであると同時に、より多くのものであることは、あらゆる意味でまったく不可能であり、考えられもしないことだからである。

 

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