118 神的なキュリロスはたしかに、「おん父に属しているものの一つは、まさしく生命である」ということによって、彼がここで生命を名指しているのであって、神の実体を名指しているのでないことを明示している。しかし我々は、彼を(彼自身の)言葉で登場させて、神に属しているそれら(の諸属性)は多くあると、言ってもらうことにしよう。さて、彼は、同じ主題についてさらに突っ込んで、「おん父には、多くの卓越性が属していると言われている。しかしおん子は、それらの卓越性を剥脱されるこはなかろう1)」と言っている。では、一体どうして、まさしく神に属しているそれら多くのものが、神の実体でありえようか。そして(神的なキュリロスは)おん父に属しているそれらの卓越性の幾つかを示そうと望んで、パウロを引き合いに出している。パウロは、「不滅であり、目に見えない」ただおひとり知恵のある「唯一の神に(1 Tm 1.17)」と言っている。これによって(神的なキュリロスは)神の属しているもののどれ一つとして、実体ではないことを、なお一層よく示しているのである。実際、どうして不滅性と不可視性とが、一般に、すべての欠性語、あるいは否定語が、いっしょくたにであれ、個々別々にであれ、実体でありえようか。なぜなら、単複いずれかの個物が存在しなければ、いかなる実体もありえないからである。他方で、それらと並んで、神に肯定的に属するものも、数々の神学者たちによって挙げられている。しかし、これらのどれ一つとして、神の実体を明らかにするものではないことは証明されている。たとえ我々が、必要なときに、それらのものの名称のすべてを、およそまったく無名なあの超実体性に使用しても、である。

 

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