121 しかし、バルラアムとアキンデュノスに従う者たちが、神的なキュリロスを彼自身(の真意)に反して連れ出すことが、どうして彼らに最大の断罪をもたらさないだろうか。と言うのは、ある時にはあることを、またある時には別のことを、ともに真実なものとして語ることが、敬虔に神学を行なう人全員のすることであって、自分自身に矛盾することをいうのは、理解力を持った人たちの何ぴとのやることでもないからである。そこで、おん子は本性的に生命をお持ちであり、おん子はその生命をご自分を信じる人々にお与えになると正しく述べ、またそのことから、次のことを示した人がいたとする。すなわち、何ぴとも受け取ることがない神の実体が生命と呼ばれるだけでなく、そのおん方の本性的なエネルゲイアも生命だと言われる。そして神によって生かされた者たちは、恵みによってこのエネルゲイアを受け取ったのであった。また、このようにして、彼らは以前は霊において生きていなかった者たちを、自分たち自身を通して救い出し、言い換えれば、霊においてまさしく不死にした。またある場合には、身体の一部ないしは身体全部が死んでいた者たちの幾人かを蘇らせることができた、と。このように、それらのことを正しくかつ明瞭に示した人が、一体どうして、それに引き続いてこの神のエネルゲイアを排除する目的で、神の実体が生命と呼ばれることを持ち出すことがきるだろうか。これとまったく同じように、今日、神的なキュリロスの諸見解を無理矢理ねじ曲げる者たちは、いな、むしろそれに言い掛りを付けている者たちは、人事不省に陥って力んでいるのである。

 

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