130 アキンデュノス派の者たちは、神学者がここで、「もしも(聖霊が)エネルゲイア(働き)であるならば、それは働きを受けるのであって、働くのではないだろう。そしてそれは、働きを受けると同時に止むことになろう1)」と言っているので、このことによって、この神のエネルゲイアは造られたものであると想定し、また、そう宣言している。いかにも彼らは、働きを受けることが、数々の造られざるものについても言われる、ということを知らなかったのである。この神学者も、別の箇所で次のように書ながら、示している通りである。そしてもしもおん父という言葉がエネルゲイアの名称であれば、「それは、同一実体性にも働きを及ぼしていたことになろう2)」と。神を戴くダマスケノスも、「キリストは、万物の摂理を神的に働きながら、おん父の右にお座りになられた3)」と言っている。しかし、「お止めになられた」という言葉も、エネルゲイアの非被造性に少しも抵触するものではない。なぜなら、「神は、お造りになり始めたすべての業をお止めになられた(Gn 2.2)」とモーセも言っているように、神は創造することをお始めになり、またお止めになるからである。もちろん、神がお始めになり、またお止めになるこの創造するということは、神の本性的で造られざるエネルゲイアである。

 

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