131 次に、神的なダマスケノスは、「エネルゲイアは、本性の能動的で実体的な動きである1)」と言った後で、神学者がそうしたエネルゲイアを働かされるものであると同時に止むものであると述べたことを示そう望んで、こう付け加えている。「神学者グレゴリオスが「聖霊論」の中で言っているように、エネルゲイアは、動きであり、働くというよりも、むしろ働きを受けるものであるということを知るべきである。すなわち神学者は、こう言っている。「もしも(聖霊が)エネルゲイアであるなら、それは、すなわち働きを受けるのであって、働くのではないだろう。そしてそれは、働きを受けると同時に止むことになろう2)」と」。したがって、バルラアムとアキンデュノスの諸見解を抱いている者たちは、神学者グレゴリオスがここでエネルゲイアと言ったものを造られたものであると教えることによって、神の本性的で実体的なエネルゲイアそのものを、狂気に駆られて被造物に引きずり落としていることは、明らかである。聖なるダマスケノスは、この神のエネルゲイアが、たんに働きを受けるばかりでなく、働きを及ぼすものであることを明らかにして、それが造られざるものであることを証明していたのである。ところで、たしかに彼が、そのことに関して、神学の名を戴く人と一致していないわけでなことは、私の諸論考の中で、すでに立ち入って論証されたところである。

 

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