134 すべての存在者は十の範疇に、すなわち実体、量、性質、関係、場所、時間、能動、受動、性状、状態に包摂される1)。また、実体の中に次々と観察される数々のものも(同様である)。ところが、神は、超実体的な実体であり、その実体の中にはただ関係と能動しか観察されない。そして、それらは、神の実体の中にいかなる複合も変化ももたらさない。実際、神は、すべてのものを創造されるのであり、ご自身はその実体において何ものをもこうむらない。また神は、創造との関係において創造者であり、元であり、支配者である。なぜなら、創造は、(神から)始まり、(神に)従属するからである。そのうえ、神は、その恵みによって我々を再生なさるのであるから、我々のおん父でもある。そればかりか神は、時間的な始まりを決してお持ちにならないおん子との関係においておん父でもあり、おん父との関係においておん子でもある。さらに、神は、おん父とおん子とともに永遠であり、一つの同じ実体に属する、おん父からの発出者なる(聖)霊でもある。しかし、神は、たんに実体に過ぎず、その内に観察されるものを何一つお持ちにならないという者たちは、神が創造し働くこともお持ちにならず、また、関係もお持ちにならないと、作り事を言っているのである。しかし彼らの考える神が、もしもそれらを持たないとすれば、その神は、働くおん方でもないし、制作者でもなく、またエネルゲイア(働き)をお持ちになることもない。そればかりか、神は、元や創造者、支配者でもなければ、恵みによる我々のおん父でもない。実際、関係と能動とを自分自身の実体の中に観察されたものとして持たない者が、どうしてそれらでありえようか。また、もしも神の実体の中に関係が観察されないとすれば、神性の三位格性さえも、同時に取り去られることになる。しかるに、三つのヒュポスタシスを有さないものは、万物の支配者でもなければ、神でもない。したがって、バルラアムとアキンデュノスに従って、このように思慮する者たちは、無神論の輩である。

 

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