150 しかし誰かが、アキンデュノス派の者たちは、神性のあの光を実体であると言っているというときには、神の実体が結局のところ見られるものであれば、彼らは、その光が実体であるということによって、このように主張する自分たちのたくらみをどうしても暴露せざるをえないのである。なぜなら、神の実体があの光を通して見られたことに、すなわち、神の実体が諸々の被造物を通して見られることになるからである。そのうえ、この惨めな人たちが、主のご変容の光は被造物であるとでっちあげているからである。しかし、諸々の被造物を通して見られるのは、(神の)実体ではなくて、神の創造的エネルゲイアである。したがって、彼らは不敬虔にも、エウノミオスとも声を合わせて、まさにこんなことを、すなわち、神の実体が諸被造物を通して見られると言っているのである。彼らの不敬虔の穀物畑は、こんなにも実り豊である。したがって(我々は)魂を滅ぼす多頭の蛇として、また敬神の害悪として、彼らおよび彼らとの交わりを避けねばならない。

 

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