148 そういうわけで、教会会議の際に1)、タボル(の山上)で救い主から輝き出たあの神的な光を、妄想であり被造物であると考えると大胆にもいいのけ、また、(そのことを)でっちあげようと試みたアキンデュノス派の者たちは、徹底的に論駁されたにもかからわず、確信を変えなかったために、文書による破門および断罪に伏されることになったのである。なぜなら彼らは、身体を通した神のオイコノミアに対して冒涜を働き、狂気に駆られて、神の神性を造られたものであるといい、そのうえ、こと彼らに関するかぎり、おん父とおん子と聖霊をも、被造物に引きずり下ろしているからである。実際、ご三方の神性は、唯一であり同じなのある。そして、彼らが神性を、まさに造られざるものとして崇めているというにしても、彼らは結局、神には二つの神性があると言明するのである。すなわち、一つは造られた神性であり、もうひとつ造られざる神性である。こうして彼らは、その不敬虔によって、古来のすべての異端を踏み越えるのに意気盛んとなっているのである。

 

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