149 またある時には、彼らはこの問題においても、自らの異端を覆い隠そうとたくらみ、タボル(山)で輝いた光は造られざるものであるとともに、神の実体であるといいたてている。彼らはこの点でも、幾倍にも冒涜を働いているのである。と言うのは、あの光は、使徒たちによって見られたのであるからには、結局彼らは、神の実体が可視的であると、ひどいことを考えているからである。しかし彼らは、次のように言う人の話に耳を傾けるがよい。「神の実体と「懐との内に立ち」、神の本性を見た、あるいは、それを明かしたりした1)」者は誰もいない、と。人間たちばかりでなく、天使たちも、誰一人としてそうである。実際、六つの翼を持つケルビムたちでさえ、かのおん者から送り出された過度の照明に対して、(自分たちの)顔を翼で覆ったのである2)。とにかく、神の超実体性は、いかなる者によっても決して見られたことはないのであるから、アキンデュノス派の者たちが、あの光はその超実体性であるというとき、彼らは、その光が、まったく見られざるものであるということ、そして、使徒たちの中から選び出された者たちでさえ、山上でその光の直視を獲なかったのだということ、また、主が彼らにそうした直視を真実には約束しておられなかったのだということ、さらに、次のように言う人は本当のことを言ってはいないということ、を証ししているのである。こうある。「私たちは、聖なる山でこのおん方の一緒にいたとき(2P 1.18)」「そのおん方の栄光を見ました (Jn 1.14)」。「そしてペトロと彼と一緒にいた(二人の)者たちは、はっり目を覚ますと、そのおん方の栄光を見た(Lc.9.32)」。また別の人は、キリストによって特別に愛されたヨハネが、「山の上でみ言葉の神性そのものがあらわにされるのを見た3)」、と言っている。このように、これらの人たちは、その超実体的な隠蔽性において不可視的なおん方としてあり続ける神の、神的で造られざるあの照明を、見たのであり、しかも、真実に見たのである。たとえバルラアムとアキンデュノスおよび彼らに賛同する者たちががなりたてようとも、そうである。

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