17 もちろん、理性的動物の中にある魂のこの表象能力は、精神と感覚との境界線になっている。実際、精神は、感覚から自分の中に取り入れられた数々の映像を、物体から切り離され既に非物体的になったものとして注視し検討するとき、様々な仕方で数々の悟性的推論を遂行し、色々な仕方で、あるいは情に流されて、あるいは情に流されずに、またどっちつかずに、あるいは過って、あるいは過たずに、分析的に考察し、比量的に考察し、論理的に考察するのである。そして、それらの悟性的推論からほとんど大部分の徳や悪徳、名声や悪評が生み出されるのである1)。ところで、精神の悟性的推論の一切がそれら(の感覚的映像に基づく悟性的推論)に由来し、それらに関わっているのではない。まさしく感覚に収まりえないものが存在して、その内の幾つかが精神によって悟性的推論に与えられるのが見出だされる。そういうわけで、わたくしは先に、悟性的推論の中にある真理や誤謬、徳や悪徳の一切が表象から元を得ているわけではないと言ったのである。