25 以上のこと、およびそれに類する事柄の内に、真の知恵と救いをもたらす認識、天の至福を授ける認識が存している。しかし、一体全体ユークリッドなる人物やマリノスという人物、あるいは、プトレマイオスなる人物の誰が知ることができただろう。エンペドクレス派やソクラテス派、アリストテレス派、プラトン派の人々の誰が、論理的な諸方法や数々の数学的証明によって知ることができただろうか1)。いや、むしろどのような感覚(的認識)が、以上の事柄を捉えただろう。どのような精神が把握したのだろうか。それに、たとえ(聖)霊による知恵が、自然本性によって知恵を愛求する人々や彼らの追従者たちにとって、取るに足らぬものに見えたとしても、そのことからも、(聖)霊による知恵の比類なき卓越さが明示されるのである。と言うのは、動物たちの非理性的な事柄がかの哲学者たちの知恵に対して持っている(取るに足らないという)関係は――もしもお望みであれば、自分たちの手にしているパンケーキの方が、王さまの冠飾り、ひいてはあの哲学者たちによって知られているすべてのものに、優っていると考ている子供たちを、例に挙げてもよいだろう――、彼ら哲学者たちが、真実で崇高極まりない知恵に対して持っている(取るに足らないという)関係とほとんど同じだからである2)。

 

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