26 ところで、神をできるかぎり真実に認識することだけが、ギリシア人たちの間にある哲学に比べものにならないほど優っているのではない。どんな位置を人間が神のみもとで有しているかを知ることだけでさえも、彼らの間にある知恵の一切を凌駕しているのである1)。と言うのは、地と天にあるすべてのものの中でも、ただ人間だけが、造り主の像に即して創造されたからである。その結果、人間はそのおん方に眼差しを向け、そのおん方を愛することができ、また、ただそのおん方だけの秘義体得者、そしてそのおん方だけの崇拝者となることができるのであり、そのおん方への信仰と傾向と性向とにおいて固有の美しさを保持することができるようになっているのである。そして人間は、この天と地が荷なっているその他すべてのものが自分自身よりも低く、精神を完全に欠いていることを知ることができるようになっている。こういったことでさえも、ギリシア人たちの間にいる賢人たちは、全然知ることができないで、我々(人間)の本性の尊厳を傷付け、神に対して冒涜を働いているのである。すなわち、「彼らは、造り主の代わりに、造られた物を礼拝し、これに仕えたのである(Rom.1.25)」。彼らは、(我々の)感覚によって捉えられる感覚能力を持たない数々の星に精神を付与し、しかもそれらの一つ一つに、その物体の大きさに力と品位とにおいて釣り合いのとれた精神を与え、それらを惨めにも拝み、それらをより偉大な神々とかより劣った神々とか呼んで、万物の統治を委ねたのである。一体全体彼らは、数々の感覚的なものによって、また、それらに関する哲学によって、自分自身の魂に恥辱と不名誉と極端な貧困を、しかも本当に可知的な懲罰の暗やみを負わせなかったのだろうか。

 

次へ