27 我々自身が造り主の像に即して造られたのを知ることは、さらに知性界をも神化させることを許すものではない。と言うのは、この即像性を持つのものは、物体の構成ではなく、他ならぬ精神の本性だからである。この精神の本性に優るものは本性上何もない。事実、もしも優るものが何かあるとすれば、そこにこそ即像性があるだろう。ところで、我々に内にある優れたものが精神であり、またそれが、たとえ神の像に即したものであるとしても、やはりそれが神によって造られたものであるからには、我々の内にある知性的なもののかの創造者は、また、知性的なすべてのものの創造者でもあることを知る。これを知ることが、どうして難しいだろうか。いな、むしろどうしてそのことは、自明ではないのだろうか。したがって、あらゆる知性的存在者は、我々と同じ僕であり、造り主の像に即しているのである。もっとも、彼らは身体を持ち合わせず、あらゆる点で非物体的で造られざる本性に一層近いのであるから、我々よりも尊敬に値する。いや、彼らの内で自分たちの地位を守り、彼らが創造された目的を愛求している者たちは、我々と等しく僕であるにもかかわらず、我々によって尊敬されるに相応しく、その地位において我々よりもはるかに尊敬に値しているのである。しかし自分自身の地位を守らずに(それから)離れ去り、彼らが創造された目的を拒んだ者たちは、神に近い者たちから、いわばはなはだしく遠ざかった者となり、尊敬(に値する状態)から脱落してしまったのである。そのうえ、もしも彼らが我々をも脱落の巻き添えにしようと企てるなら、彼らは、無益であり、尊敬に値しないばかりか、神に逆らい、我々人類に害悪をもたらすもっとも敵対的な存在者となるのである。

 

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